少し前ですが、国会の予算委員会で自民党の本田顕子議員が質問が早く終わったので、「母校自慢をさせていただきたい」と話した内容です。
母校というのは東京都品川区にある星薬科大学です。東京では、3㎞ほど離れたところに住んでいたので、前を通ったことがあります。星薬科大学はSF作家の星新一さんの父である星製薬の創業者、星一氏が設立しました。本田議員の母校自慢で取り上げられてのが、「薬猟(くすりがり)」という本館大壁画です。

日本書紀によると、611年5月5日に推古天皇が百官を率いて、奈良県の兎田野で薬草などを採取する薬猟を行なったそうです。これが日本の製薬事業の端緒となりました。奈良県出身の高市首相に絡めたエピソードです。
薬猟で薬というのは植物性の薬草だけでなく、奈良ですから鹿の角のような動物性のもの、水晶など鉱物性のものも含まれます。
推古天皇がはじめた薬猟は宮中行事となって、その後毎年行われるようになります。
薬猟というものは初耳でしたが、誰もが知っている額田王の有名な歌があります。
「茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
668年5月5日に薬猟をおこなった天智天皇が額田王に袖を振ってプロポーズした場面です。
紫野の紫はムラサキで薬草です。根を乾燥させると紫根(しこん)という火傷や傷に効く成分があり、紫雲膏の原料になります。紫野はムラサキを栽培している野草園です。
標野の標はシメで立入禁止のことです。天皇や皇族以外が入ることを禁じていたところです。標野でもやはり薬草、おそらく紫を栽培していたようです。
憲政史上初めての女性総理大臣が誕生したタイミングで、東アジア最初の女帝である推古天皇が取り上げられることが多いのはよいことです。
推古天皇の摂政を務めた聖徳太子が隋の皇帝に「日出処(ひいづるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや・・」と、国書を送ったのはよく知られています。但し、中国側の記録にあるだけで、日本側の記録はないので、真偽は不詳です。推古天皇15年に当たる607年に遣隋使、小野妹子が持参したとされます。
このときの皇帝は中国史上で最も悪名高い暴君、煬帝です。煬は諡(死語に送られた号)です。Wikipediaによると「色を好んで礼を無視した、礼に背き人民から嫌われたもの、天に逆らい人民を搾取したもの」という意味だそうです。
聖徳太子からの書簡に激怒したと伝わる煬帝が、悪政の末に中国統一王朝、隋を滅亡させるのはそれから10年後の618年のことです。都を追われ、逃れ逃れた煬帝は、すっぱり死にたかったのですが、息子たちですらそれを許しません。煬帝は側近の家臣に真綿でじわじわと首を締められ、長い時間苦しみながら悲惨な最期を迎えたといわれます。
推古天皇は36年に及ぶ治世で、内政では仏教を振興し、中央集権的な政治制度を整備して国の骨格を確立させました。外交では大陸や朝鮮半島との積極的な対外交流を通じて、どの国にも従属しない、独立国家日本の基礎を築きました。推古天皇は、隋の滅亡から10年後の628年に、当時としては稀な75歳の長寿を全うして崩御されます。
この機会に、推古天皇時代の倭隋外交(朝鮮半島三国との外交も絡めて)を学ぶのもいいかなと思います。
