山口市の洞春寺は毛利元就の菩提寺ですが、元は大内盛見(おおうち・もりあきら)の菩提寺・国清寺として1400年(応永7年)に創建されています。
洞春寺の本堂は江戸時代に焼失して再建されていますが、山門は国清寺創建当時のもので、観音堂は大内持盛の菩提寺として1430年(永享2年)建立されたものです。いずれも国の重要文化財に指定されています。今日は、建物では無くてお墓のことです。

洞春寺には当然ですが、大内盛見の墓があります。大内盛見は大内家の第11代当主で、父が大内弘世(9代)、兄が大内義弘(10代)です。観音堂の大内持盛は大内義弘の子で、持世(12代)の弟です。
このあたりの関係は、結構ぐちゃぐちゃしていて、覚えきれません。
とりあえず、大内弘世という人が、分裂していた大内氏を統一し、長門・周防両国の守護大名としての地位を確立したこと。京都の公家・三条家から嫁いだ若姫のために、京都に似た地形の山口盆地に本拠地を移して「西の京」をつくった人だということを押さえます。
大内盛見の墓は、無縫塔という形態の墓です。塔身が卵型で継ぎ目が無いのが特徴です。
無縫塔という形態は、鎌倉時代に禅宗とともに中国の宋から伝わりました。主に禅宗の僧侶の墓の形態ですが、盛見の墓のように、僧侶ではない身分の人の墓にも採用されていました。山口県内で、同時代のこの形態の墓は下関の妙音寺にもありますが、非常に珍しいようです。
これ以上詳しいことは分からないのですが、無縫塔の形でいろいろなことが分かるのだそうです。盛見の墓の形は塔身が短く、請花の下の竿が長い形をしていますが、これは京都の石工がつくったものだそうです。この時代の防長地域の無縫塔は、たいていこの形で、大内氏が京都と強くつながっていたことがわかるそうです。
時代が下ると、京都との縁が薄れて、大内氏所縁の墓は竿の無い無縫塔形態や宝篋印塔形態などに変わっていきます。
お墓の形も興味深い「西の京」やまぐちに、おいでませ。
