三浦洸一が亡くなった「異国の丘」と「憧れのハワイ航路」

『歌手の三浦洸一さん死去、97歳。「落葉しぐれ」「弁天小僧」がヒット…。

 

今日のニュースですが、三浦洸一さんが亡くなったのは11日のことで、既に葬儀などは終えているということです。

 

Yahoo!ニュースから・・『三浦洸一は1928年神奈川県生まれ。東洋音楽学校声楽科を卒業後、日本ビクターに入社。作曲家・吉田正に師事し、1953年の「さすらいの恋唄」でデビュー。「吉田学校の長男坊」として「落葉しぐれ」「弁天小僧」「東京の人」などをヒットさせた。NHK紅白歌合戦には1955年から63年まで連続して出場した。』

 

三浦洸一 異国の丘
三浦洸一 異国の丘

さて、三浦洸一の師匠である作曲家・吉田正が世に出たきっかけです。

 

戦争中に、陸軍上等兵として満州で従軍していた吉田正は敗戦後にシベリアに抑留されます。吉田の作曲にやはり抑留兵の増田幸治という方が、詞をつけたのが「異国の丘」です。抑留兵の間に広がりました。

昭和23年8月にシベリアから復員してきた中村耕造という人がNHKのど自慢で「異国の丘」を披露します。

 

♬今日も暮れゆく 異国の丘に / 友よ辛かろ 切なかろ / 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ / 帰る日も来る 春が来る♪

 

この曲は何だ?ということで日本国内で話題になります。

その昭和23年8月に、何も知らない吉田正は舞鶴港に復員してきます。翌9月には日本ビクターからレコードになり発売され、吉田はビクターの専属作曲家になります。大人気作曲家となった吉田正は「有楽町で逢いましょう」「潮来笠」「いつでも夢を」などヒットを連発します。

 

「異国の丘」は多くの歌手に歌われています。シングル盤でたくさん売れたのが三浦洸一が1961年にカバーしたものです。三浦洸一は終戦時に17歳でしたから陸軍予備隊に入隊はしていましたが戦地には行っていません。しかし、兄がビルマで戦死しているなど戦争の記憶が十分にある世代です。

 

昭和23年はシベリア抑留者の日本への帰還がはじまった頃です。降伏して武装解除した日本兵約62万人を捕虜としてシベリアに長期抑留して、劣悪な環境の下での過酷な労働に従事させました。吉田正が復員した時点では、シベリアにはまだ30万人が残っています。抑留されてまま亡くなった方は、少なくとも6万人以上になります。

 

さて、「異国の丘」について長々と書いた理由です。

この昭和23年のもう一つの大ヒット曲が「憧れのハワイ航路」なんです。

♪晴れた空 そよぐ風 / 港 出船の ドラの音 たのし / 別れテープを 笑顔で切れば 希望果てない 遥かな潮路 / ああ 憧れの ハワイ航路♫

この2曲の対比から、戦争の無慈悲さを強く感じてしまうのです。

 

※ この年には「東京ブギウギ」「リンゴの唄」などもヒットした。