Y工場長の思い出

今日訪問した先で、ちょっと昔のことを思い返しました。

 

新卒で入社して、工場に配属になったときのY工場長のことです。

第一印象は、ずいぶんと身体の大きなおじいちゃん?!だなってことでした。Y工場長は当時68歳、大正5年生まれです。今の68歳はまだまだ若いですが、戦前に生まれた方では少し印象が異なります。しかも社長よりも4歳年長、つまり会社で最も年上の方でした。

 

硫酸鉄
硫酸鉄

とても朗らかで、優しそうです。厳しいことも言われません。社会人になったばかりで、ちょっと緊張していた私たちにとっては幸いでした。

 

一方で、すごく立派な身体です。昼休みに会社の空き地でキャッチボールしていると、脇の鉄棒で繰り返し懸垂したりしています。

一度、由布岳登山をご一緒したことがあるのですが、急坂もグイグイ直登していくので、若者たちはタジタジです。

 

Y氏は、愛媛県生まれで東京帝大冶金学科の出身です。戦争中は航空機用の鉄鋼材料の開発などに携わり、戦後に山口県に唯一の工場がある鋼板会社に入社します。長年に渡り製造に携わり、多くの技術開発を手掛けた後、工場長としてまた専務取締役として経営を担われました。鉄鋼業界団体の役職も多く引き受けられており、業界ではよく知られた方でした。

 

<このあたりからは、M社長の回想録の記述を参考にします>

私が入社する前年に、当時のM社長が、鋼板会社の専務を引かれるY氏に、当社の工場長に座っていただけないかとお願いしたところ受けてくださったそうです。

名だたる大会社の専務が、一地方企業の従業員数150名ほどの工場で工場長につくのは当に異例なことで、鉄鋼業界では大いに話題になったそうです。

 

少し時代を遡ります。

酸化鉄メーカーであった会社は、長年に渡る公害問題と労使紛争で疲弊しており、経営資源も枯渇していました。そこで、起死回生を狙って酸化鉄の無公害製法の開発に取り組み成功します。そして、このタイミングで、磁気記録材料として酸化鉄が脚光を浴びることになり、需要が急拡大する見込みがついてきました。

 

一方で、新製法での酸化鉄の生産には、原料となる硫酸鉄が大量に必要となります。硫酸鉄は鋼板の酸洗工程から発生する副産物です。生産量が増えていっていた鉄鋼会社にとっては、硫酸鉄の引取先ができるのは好ましいことです。

 

会社は磁気テープの隆盛期が近づいていくなか、一刻も早く新技術の酸化鉄の増産をしたいのですが、プラント建設に投資する資金がありません。

そこで、鋼板会社に提案をします。会社の工場のなかに鋼板会社の資金でプラントを建設してくれないか。新しい酸化鉄は必ず売れるので、6年後には簿価でプラントを買い戻す。鋼板会社の酸洗工程から出る酸化鉄はその全量を引き取る。万一出来なかったら、全取締役が所有する自社株式の全てを譲渡するという条件です。

 

プロジェクトが成功しなければ、事実上6年後に会社を譲ることになるのですから、大変な賭けです。とは言っても、 鋼板会社側からみればどうしても受けなければならない話でもありません。この提案が通ったのは、Y氏の胆力だったのでしょう。

 

いかなる天祐があったのかはわかりませんが、6年後に無事にすべての約束は履行されます。公害問題解決の方向が示されれ、経営再建の道は見えてきました。しかし、労働問題や地域や漁協などとの軋轢は完全には解消されていきません。そんななか、工場長が突然死されるようなことが起こりました。

私の入社した年から、工場は4組3交替の連続操業に入り、従業員が50名近く増えました。人員増もなんのそので、VHSテープが爆発的に売れ行きを伸ばして工場の操業度は増すばかりです。工場経営は混迷を続けるさなかに、Y氏が工場長に着任したわけです。

 

私たちの工場が、曲がりなりにも落ち着いた運営ができて、それなりの収益をあげられたのはY工場長の人柄によるものが大きかったと思います。

 

毎日、工場の隅々まで歩いて、全ての従業員と話をされます。会社への通勤も、毎日5キロ近い道を歩いて来られていて、近所の子供たちにも人気になっていました。

毎週水曜日の夕方には、私たち若手社員と文献輪読会(実際は講義ですね)を開いてくれていました。英文の原著文献なので、喜んで参加していたとは言い難いですが・・。 

 

Y氏は、その後3年余りで引退されます。引退された後にも、何度かご自宅を訪問させていただきました。いつも、刺激を与えてくださる方でした。

2008年にお亡くなりになりました。92歳でした。