150年かけた対策でも防げなかった寛保2年江戸洪水

BCP(事業継続計画)に関連した仕事をすることがあるので、自然災害の歴史を折に触れて調べています。今日は、江戸三大洪水の一つ「寛保の洪水」について書きます。

 

発生したのは、新暦で寛保2年(1742年)8月28日です。巨大な台風が東日本を襲いますサ相模湾から現在の神奈川県に上陸した台風は、そのまま北上していきます。東京都と山梨県の県境辺りから群馬県を通って新潟県へと抜けていきます。台風の進路の東側に当たる関東平野全域に大きな被害を与えました。

 

徳川入府前の江戸
徳川入府前の江戸

寛保2年は八代将軍徳川吉宗(将軍在位は1716年~1745年)の時代の終盤です。

徳川家康の江戸入府(天正8年(1590年))から150年余りが経っています。

 

当時の日本は人口が約3000万人です。江戸は人口100万人を超えて北京、ロンドン、パリなどと肩を並べる世界最大の都市でした。

 

尚、この江戸とは現在の東京23区の1/10くらいの面積です。品川は江戸を出た東海道の最初の宿場で、新宿は甲州街道の高井戸宿までの距離が長いので間につくられた新しい宿場です。いずれも江戸の外です。

かなり狭い江戸に100万人が住んでいたわけで、世界有数の過密都市でもありました。 

 

利根川と荒川
利根川と荒川

この巨大都市江戸を水害から守るために、徳川幕府はまさにあらゆる手立てを尽くします。

最大の事業が利根川の東遷です。東京湾へと流れていた利根川を銚子から太平洋へ流れるように付け替えたのです。1594年の着工から1654年まで60年間かけた大事業です。

さらに、利根川と合流していた荒川は、入間川から隅田川と合流させる西遷させました。

 

その後も江戸の洪水対策、治水事業は歴代将軍によって継続されていきます。八代吉宗はとりわけ治水には熱心で、川の治水設計をする普請役や、関東の主要4川を専門に担当する四川奉行を設置するなどしています。

紀州から井澤弥惣兵衛などの土木技術者を招聘して、紀州流の新たな土木技術や河川管理技術を関東一円で実践していきます。

 

それでも、寛保2年の台風の被害を防ぐことはできませんでした。

台風の低気圧で潮位が上がった東京湾に、強風が吹き付けて高潮となり、江戸下町一帯は水没します。さらに豪雨によって、利根川上流部(今の埼玉県越谷・春日部から千葉県野田市にかけて)で複数の破堤がおこったことで北からの洪水が押し寄せます。

江戸下町で約4000人、関東全体で約1万人の死者が出たといわれています。