大妻コタカは明治17年(1884年)に広島県世羅町(駅伝で有名な世羅高校がある高原の町です)で生まれました。広島県立高等小学校を卒業後、手芸裁縫を学ぶため上京し、明治34年に堀越千代が設立していた和洋裁縫女学校に入ります。卒業後の明治41年(1908年)に、コタカが生徒15名を集めて手芸裁縫の家塾を開いたのが、大妻女子大学の起源です。現在の大妻女子大は学生数7300名近く、女子大としては、武庫川女子大に次ぐ日本第2位の規模です。
ちょっとさかのぼって、堀越千代です。安政6年(1859年)に盛岡で生まれた千代は明治16年に洋式東京洋服裁縫学校に学び、明治30年(1897年)に和洋裁縫女学校を開校しました。今の和洋女子大学です。
大妻コタカが和洋裁縫女学校を卒業したときの写真が残っています。それぞれが卒業制作したドレスを着て収まっています。
真ん中の和装の方が、堀越千代です。その右に一人だけ帽子を被って、目立つのが20歳の大妻コタカです。帽子は男物のカンカン帽だそうで、若い時から少し個性的です。
もっと個性的なのが大妻学院の校訓「恥を知れ」です。良妻賢母の育成を目指す学院の校訓としてはインパクト満点です。コタカは、「恥を知れとは、決して他人に言うことではなくて,あくまで自分に向かって言うことです。自分を高め,自分が自分の『良心』に対して『恥じるような行いはするな』ということ」と語っています。
大妻コタカの功績については大妻女子大のwebサイトなどに詳しいので割愛します。
大妻学院を開いた大正から昭和にかけて、コタカが度々世羅町を訪問して、様々な活動をしていたことです。戦後、世羅に女子専門学校を設立して、地域の女子教育に貢献しました。大妻コタカは、世羅ではとても有名で、今でも慕われています。
生涯を女子教育にささげた大妻コタカは、昭和45年(1970年)に85歳で亡くなりました。