野田市とキッコーマンなど醤油産業の深いつながり

国内醤油の1/4以上がキッコーマンが占めています。海外では「キッコーマン」が醤油のことを指します。

 

日本で醤油は室町時代から主に関西でつくられるようになりました。主な産地は、今の兵庫県の龍野、大阪府の堺、和歌山県の湯浅などです。醤油づくりが関東に伝播した最初は、今のヒゲタ醤油のようです。ヒゲタ醤油のwebサイトによると、1616年に今の千葉県銚子で、田中玄蕃が兵庫県西宮市の真宜九郎右衛門にすすめられてしょうゆの醸造をはじめたとあります。

 

野田市の醤油工場(大正時代)
野田市の醤油工場(大正時代)

1645年には和歌山県有田出身の濱口儀兵衛が同じく銚子で醤油づくりをはじめました。ヤマサ醤油webサイトによると、これがヤマサ醤油のはじまりです。

 

千葉県の野田では、1661年に高梨兵左衛門が醤油醸造業をはじめ、翌年1662年に茂木七左衛門が味噌づくりをはじめました。

1762年に高梨家の男子が茂木家の女子と結婚して養子に入り、高梨家と茂木家の関係が密接になります。

 

明治になって、1887年に野田の醤油醸造業者は野田醤油醸造組合を結成します。この組合は醤油醸造業を発展させるために、地域のインフラ整備を進めていきます。

1900年に醤油を東京に運ぶために、野田人車鉄道株式会社を設立し、1911年には千葉県柏との間に軽便鉄道を開設します。この鉄道は、船橋~大宮まで延伸して、今の東武鉄道になります。同じく1900年には醤油をもじった野田商誘銀行を設立(戦後、千葉銀行と合併)、1914年には病院(今のキッコーマン総合病院)をつくります。

 

キッコーマンのwebサイトによると、1917年に野田醸造組合のなかから高梨・ 茂木一族の8家(16醸造所)が合同して前身となる野田醤油株式会社を設立(1964年にキッコーマンに社名変更)します。新会社は各醸造所の醤油の品質を均一にする必要(水が違うと醤油の品質が変わる)に迫られ、水道事業に着手して1923年に通水を開始します。

 

鉄道も銀行も病院も水道も、醤油醸造業者だけでなく一般の市民も利用できたので、野田の地域社会は大いに繁栄したそうです。野田市のwebサイトには、この歴史が詳しく書いてあります。企業が地域社会と深く結びついていることの大切さがわかります。