近世城郭の最初は安土城。中世の城に学んだ

昨日の続きです。世間は結構なお城ブームのようです。 

 

日本百名城を巡る旅がスタンプラリーのように人気を集めています。百では飽き足らずに、続日本百名城も指定されています。山口県では百名城には岩国城と萩城、続百名城には「大内氏館と高嶺城」が選ばれています。

「大内氏館と高嶺城」というのは、中世の大内氏は強大で山口に攻め込まれることは考えていませんでした。毛利元就が力をつけて、ついに攻め込んでくるというときに、慌てて高嶺城を築城をはじめたという経緯です。大内氏の高嶺城は完成しておらず、その後に毛利氏が引き継ぎました。関ケ原の合戦で敗れた毛利氏の拠点は萩に移され高嶺城は廃城となっています。

 

左が岐阜城・右が安土城

日本の城というのは、織田信長の安土城(1579年)以前と安土城以降に分けられるようです。安土城以降が近世城郭とされ、石垣・瓦屋根・虎口や馬出等出入り口の構造が特徴だそうです。虎口(こぐち)というのは、敵の侵入を妨害する城の出入り口の構造のことです。

安土城に見える食い違い虎口を最初に採用したのが、斎藤道三が改修した岐阜城(1567年)だったそうで、信長はこれを模倣したようです。

 

信長の安土城は斬新な構造ですが、各地の城の良いところに学んで作り上げたものだそうです。廓の構成や堀の構造は、信長が攻略した松永氏の豊田山城(天理市)や鹿背山城(木津川市)を参考に、虎口や馬出は美濃斎藤氏と縁の深い越前浅倉氏の朝倉城(養父市)を参考にしたようです。

 

信長は、中世城郭の良いところを集めて、さらに改良して近世城郭の礎にしたというわけです。ただし、その変化が改良という言葉の範囲を超えて革新でした。