墨俣一夜城は三日半でできた砦

仕事のついでに墨俣歴史資料館に立ち寄りました。疑問がちょっと解けた気分です。 

 

念のためですが、このお話には諸説あります。

墨俣一夜城のお話は、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の立身出世のきっかけになったとしてよく知られています。織田信長は斎藤氏の居城稲葉山城(現在の岐阜城)の攻略に手こずっていました。そこで、稲葉山城攻略の拠点を墨俣(現在の大垣市墨俣)につくろうとしました。

 

墨俣一夜城
墨俣一夜城

墨俣は輪中にあるのですが、美濃路の要地にあります。墨俣から稲葉山城は、はっきり見える位置にあり、確かにここに前線基地があると攻城戦には有利とわかります。

 

信長は佐々成正ら有力家臣に命じて、何度も墨俣に拠点をつくろうとします。斎藤氏側はこれを許さず攻撃してきます。信長自身も墨俣に入って拠点の維持を図りますが、結局は斎藤氏の攻撃は激しく、放棄せざる得なくなっていました。

 

そんなとき、当時30歳でまだ織田家では軽輩(足軽大将)だった木下藤吉郎が、自分なら墨俣に拠点をつくることができると言い出します。信長はこれを受け入れて、藤吉郎に拠点つくりを命じます。

 

藤吉郎は土地の山賊だった蜂須賀小六などを使って、今のプレハブ工法を採用して、墨俣に砦を僅か3日半でつくります。この間に斎藤氏の攻撃があったのですが、信長から借り受けた鉄砲隊の活躍もあってこれを退けます。

 

わかったことは、墨俣一夜城という言葉とは違って、砦だということ。建物は2層の櫓が1棟ありますが、その他は平櫓6棟と信長の在所になる平屋1棟だけ。プレハブ工法が役立って築いたのは、主に馬柵。そして、3日半でつくれた要因は、佐々成正時代の遺構がかなり残っていた(斎藤氏も忙しかったので完全に破壊しきれていなかった)からのようです。

 

信長は墨俣砦完成の翌年に稲葉山城を総攻撃します。これに敗れて、斎藤家は斎藤道三から3代目龍興を最後に滅亡します。

秀吉は稲葉山城の攻略でも武功をあげて昇進します。墨俣一夜城の僅かに3年後の但馬出兵では織田軍大将として2万の兵を動かし、10日間で18城を陥落させます。その後、関白・太閤にまで昇りつめる秀吉の立身出世物語には、どうしても心躍ります。