不寛容が拡がる社会~首相公邸での忘年会

 首相公邸で、親族だけの忘年会が開かれたことについての報道があります。

 

一部の野党と左派マスコミが中心になって、批判的な論調の記事(東京新聞などは、かなり無理筋でフェイク満載ですが・・)が掲載されました。岸田首相は聞く力で、長男を首相補佐官から更迭(この首相は、身内や仲間をすぐ見捨てるので心配です。普通の会社なら、こんな社長は長続きしません。)しました。

 

家族で楽しむ
家族で楽しむ

首相公邸は首相の住まいです。

公費で建てられて年間1億6千万円の税金が投入されている施設で、親族だけで忘年会を楽しむのは怪しからんという頓珍漢なことを言う人もいます。

 

岸田首相の前、菅首相も安倍首相も公邸には住んでいません。自宅(菅首相は議員宿舎)から官邸 に通っていました。

このときは、年間1億6千万円の経費がかかっている公邸に住まないのは怪しからんと言われていました。

 

現代の日本は、不寛容さが増してきています。政治家に限らずタレントなどのちょっとした言葉尻をとらえてパッシングすることが、しばしばあります。些細な過ち(親しい中なら許される悪ふざけ)や、軽微な違法(厳密に言えば法に触れるけど、みんなやっていること)でも、盛大な批判の対象です。

※個人的には、スポーツ選手やタレントなど有名人の異性関係をほじくり出して取り上げることは無用なように思います。 

 

もちろん、悪いことは悪い、ダメなものダメ、なんでしょうが、悪いとかダメの基準は絶対的に正しいものではないことに、人は気づかないといけません。少々のことには目をつむるとか、見なかったことにするとかは、知恵というものです。

 

日本は画一的な社会です。コロナ騒動で海外との交流が薄れたこともあって、単一文化の悪癖が強まってきたようにも思います。

それぞれの文化にはそれぞれの価値観があり、世界の多くの地域では、文化や価値観は混ざり合い、きっちりした秩序は形成されません。そういうなかで、しっかりしたコミュニケーションをとって、自らの地位を確保するには寛容の精神が重要です。

  

ところが、ここに寛容のパラドックスというものがあります。

イギリスの哲学者カール・ポパーは、「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」と言いました。

「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」ということです。「不寛容」に対しての「寛容」は「不寛容」を認めることになるのです。

さぁ、どうしましょうか?