東京銀座資生堂のブランド力はもっともっと世界に浸透していく

化粧品の業界では世界の7大ブランドといわれるそうです。 

 

ロレアル、ユニリーバ、エスティ ローダー、P&G、ジョンソン エンド ジョンソン、コティの6社の海外ブランドに、日本の資生堂を加えたのが7大ブランドです。但し、売上規模からは、ロレアルとユニリーバがトップ2(年商3兆円規模),エスティ ローダーとP&Gがミドル2(2兆円規模),ジョンソン&ジョンソンとコティと資生堂がそれを追う3番手(1兆円規模)のイメージです。

 

銀座資生堂パーラー
銀座資生堂パーラー

資生堂の歴史を同社のwebサイトで見てみると、創業したときは薬局だったのですね。

 

1872年(明治4年)

福原有信が東京・出雲町(現在の銀座8丁目)にわが国初の民間洋風調剤薬局として創業 当時は「新橋資生堂」として知られていました。

 

このとき福原有信は安房の出身で幕府医学所で西洋薬学を学んだ24歳。海軍病院の薬局長を辞して資生堂を創業します。

 

1897年(明治30年)

化粧品業界へ進出(化粧水「オイデルミン」ほか数点の商品を発売)

その後、資生堂は化粧品のラインナップを充実していきます。

 

1927年(昭和2年)

株式会社資生堂となる。取締役社長に福原信三就任 

 

福原信三はその名の通り、福原有信の三男です。長兄の信一が病弱だったこと、次兄の信二が夭折したことから、資生堂の後継者となります。資生堂を本格的に化粧品会社に移行させたのが信三です。法人としての資生堂の初代社長となったとき信三は44歳です。

 

信三が特に優れていたのが「東京銀座資生堂」というブランドの確立に成功したことだそうです。薬局のイメージがあった「新橋資生堂」の表記を改めたのです。

 

実は、大正の初めの銀座は、東京駅が開業した丸の内や百貨店が人気になった日本橋に押されて閑散としていたそうです。日本政府も銀座を顧みることはなかったのです。

 

しかし、信三は銀座を西洋式の社交空間に変えようと考えて、パーラーやギャラリーを開設します。当時の有力メディアを使って「東京銀座資生堂」のイメージを広げていきます。

そして、ちょうどこの時期に、渋沢栄一や藤山雷太のように西洋事情に明るい実業家は、東京に社交場が必要と考えていました。彼らは、信三の考えに賛同して、銀座に帝国劇場など社交の空間を次々と開場させます。東京銀座は西洋モダンな都市文化に浸れる、稀有な空間として再興していったのです。

 

福原信三が創った「東京銀座資生堂」のブランド価値は、100年以上の時を経て、一層力を増しています。信三のような都市空間を丸ごと創造してブランド化するといった、気宇壮大な経営構想をつくる若い経営者が、これからも新たに出てくることを期待しています。