改めて驚く。秀吉の「中国大返し」

 知人が備中高松城址を訪問したところ、とても興味深かったと感激していました。

 

実家からそう遠くないですし、岡山や倉敷には何度も行ったことがあるのですが、備中高松城址には縁がないままでした。名将清水宗治が守る備中高松城は備前との国境に近い重要な拠点です。毛利氏が必死に守りますが、織田氏の羽柴秀吉が水攻めの計略で巧みに攻め立て、ついに万策尽きた毛利方は、城主清水宗治の自刃を条件に和睦に応じたという旧跡です。

 

備中高松城本丸址(岡山県webサイト)
備中高松城本丸址(岡山県webサイト)

この和睦の成立、つまり清水宗治が船上で自刃したのが天正10年6月4日午前のことです。 

この2日前の6月2日早朝に京都・本能寺で織田信長が明智光秀の謀反に遭って横死しています。信長の側近、長谷川宋仁は京都から地方で戦っている織田家臣に急報します。この伝達には、飛脚が使われます。

 

戦時ですから、織田本陣と家臣たちへの飛脚での伝達は頻繁におこなわれていたようで、一人で走るわけではなく何度も中継して伝える駅伝方式の飛脚便です。

 

京都から秀吉の備中高松城までは約230㎞(箱根駅伝の往復より長い)あるので、2日昼に京都を出発した飛脚便を秀吉が見たのは3日夜のことだったようです。ドラマでは秀吉が信長の死を知って、毛利方にこれを秘して和睦を急いだとなっていますが、どうも和睦はその前に成立していたようです。また、毛利方も4日午前には本能寺の変の一報を受け取っていたという説もあります。

 

ただ、そこからの秀吉の機敏さは驚愕です。いわゆる「中国大返し」です。

中国大返し
中国大返し

地図にマークしてみましたが凄いです。先ず、理解しておかなければならないのは、秀吉軍は2万とも言われる大軍ということです。戦闘員だけでなく、物を運ぶ者、煮炊きをする者もいますから、ちょっとした町が移動するようなものです。

 

秀吉軍は、和睦が成った翌日の6月5日朝に備中高松を出発して、その日は約20㎞ほど離れた備前沼城に入ります。そこから2日かけて約80㎞進み、7日午後には秀吉の本拠である姫路城に入ります。ゆっくりすることはなく、戦いの支度を1日で終えた秀吉軍本隊は9日朝には姫路を出て、また2日で約80㎞を進み11日午後に尼崎に入ります。そして、尼崎から約30㎞離れた今の高槻市の富田に12日午後には大軍が集結を終えます。

明智光秀を破ることになる山崎の合戦は翌6月13日です。

 

書けば簡単ですが、バスや電車で移動するわけではないので、ちょっと気が遠くなります。この大軍を遅滞なく動かしたことで、秀吉が卓越したリーダーであったことがよく分ります。