最初の国葬は伊藤博文公。暗殺からわずか9日後

事実上、日本で最初の国葬は、初代内閣総理大臣・伊藤博文を送るものでした。

 

それまでの国葬は、すべて生まれたときからの皇族・旧藩主・公家が対象でした。伊藤博文は公爵ですが、貧しい農民から身をおこし長州藩士となり、明治維新を経て政治家として活躍しました。明治42年(1909年)10月26日に、伊藤博文はハルピン駅で暗殺されます。☞ 2019/12/05 みんな、もっと伊藤博文公のことを知ろう 

 

伊藤公国葬
伊藤公国葬

伊藤公を暗殺した安重根と、安倍前首相を暗殺した山上容疑者の、ものの考え方や行動には似通ったものがあります。

犯した行為の性質もほぼ同じなのですが、その後の社会に与えた影響までも似てしまいそうなのは、心配なところです。

 

~両者ともに逆恨みした殺人者であり、非難されるべきです。しかし、ずる賢い人たちによって、非難が向かう先が変わってきています。あまつさえ、殺人者を英雄に祭り上げられようとする動きまであります。本当に恐ろしいことです。~

 

さて、伊藤博文公の場合、暗殺されたことが知らされた翌日には「国葬」をおこなうことが決まったようです。

その経緯は不明ですが、10月28日には、日比谷公園の使用願いが東京市長(尾崎行雄)に出されています。翌29日に内閣総理大臣(桂太郎)が国葬をおこなう旨を閣僚を通じて関係省庁に伝達しました。

 

10月30日・31日の2日間で国葬の段取りがほぼ決まります。11月1日に国葬の式次第が国民に公示されます。同日、伊藤公の遺骸は船で横須賀港に到着し、枢密院議長公邸に運ばれて安置されます。2日・3日は、親族が別れを惜しみ、皇太子など皇族や国会議員など関係者の弔問を受けます。そして、翌11月4日に、日比谷公園で国葬がとりおこなわれました。

 

この1週間に、大井町に伊藤公の墓所が突貫工事でつくられています。国葬の儀式を終えた伊藤公の遺骸は、日比谷公園から大井町(西大井駅の近く)まで移動します。この葬列を見るために、多くの市民が集まりました。沿道だけでは入りきれず、店の中やら屋根の上、裏道まで群衆であふれかえりました。この国葬は、伊藤公暗殺から僅かに9日目のことでした。