大寧寺の盤石橋。石刎橋の謎は解けるか?

天文20年(1551年)に大内義隆は陶隆房の謀反に遭い、長門湯本の大寧寺で自刃します。

 

周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前の七か国を領した西国最大の大名にして名族の大内家は、31代当主・義隆と共に大寧寺で滅んだのです。義隆の辞世は「討つ人も討たるる人も諸ともに 如露亦如電応作如是観(にょろよくにょでん_おうさぜかん)」です。後段は、(どんな人の人生も)露のように儚く、稲光のように一瞬だ_まさにそのように(無情なものと)観るべきだ。といった意味です。金剛般若経にある言葉です。

 

盤石橋
盤石橋

長門湯本温泉は、約600年前に大寧寺の寺領から沸き上がったとされています。今でも、長門湯本温泉の泉源は大寧寺にあり、ここからホテルや旅館に配湯されています。

 

大寧寺はいろいろと見どころの多い寺です。山口にお越しの際は、是非訪問してみてください。☞ 長門湯本温泉「大寧寺」

 

ちょっと変わった大寧寺の見どころが「盤石橋(ばんじゃくきょう)」です。寛文8年(1668年)に建架され、宝暦14年(1764年)に再建架されたものです。自然石を組み積みした石刎橋(いしはねばし)としては、最も古い時代のものです。

 

日本では橋の多くは木造で、石造の橋そのものが珍しいのです。

石造の橋は、桁橋という両岸の間に石を渡しただけのものが最初にできました。ただし、これでは長い距離は渡せません。

そこで、眼鏡橋のようなアーチ橋が考案されてつくられるようになりました。長崎の眼鏡橋は1634年につくられています。沖縄・那覇の天女橋は1502年に架けられたという記録があります。現在の橋は沖縄戦で壊れたものを1969年に復旧したものです。

 

盤石橋のような石刎橋はアーチ橋よりも時代が下ってつくられるようになったものです。この様式の石橋は、海外でも19世紀の後半になるまではあまり見当たらないようです。

何故か、石刎橋は山口県にとても多く(というか、他県にはほとんどない)あります。江戸時代の防長には、石刎の特別な技量を持った集団が存在していたことは間違いありません。しかし、詳しいことはわかりません。どうやら独自に技術を開発し、普及させたようですが、謎は深まります。

☞ 近世以前の土木・産業遺産 「山口県」

 

まぁ、いろいろ不思議な山口県です。おいでませ!山口へ