渇しても盗泉の水を飲まず。意味が違いました

選挙が終わって政治家さんの不祥事ネタが報道されます。その際によく聞く「渇しても盗泉の水を飲まず」は、不正を行ってはならないという意味だと思っていましたが・・。

 

ことわざを知る辞典の解説:「孔子が盗泉という名の泉の前を通ったとき、のどが渇いていたにもかかわらず、その名の悪しきを嫌って水を飲まなかったという故事が伝えられています。盗泉は、山東省泗水県にある泉。」 これまで、他人の所有している泉の水を勝手に飲むこと(窃盗罪かな?)と思っていましたが、違いましたね。

 

泉の水
泉の水

この場合、泉の水を飲むことは窃盗でも何でもないわけです。孔子先生は、「盗泉」という名前がいけないから、のどが渇いていても飲まないというわけです。

ちょっと、やりすぎな感じがします。

 

もし、あなたが本当に喉が渇いていて、もう死にそうだとなったとします。誰かが所有している泉があり、その所有者が泉の全ての水を使っているわけではないことを知っていたとします。

しかも、その所有者は遠き離れたところにいて、私が泉の水で喉を潤したとしても、そのことを知ることは無いとします。その場合、あなたはどうするでしょうか?

 

孔子先生なら、一も二も無く泉に背を向けるわけですが、多くの人は泉の水に手を出すのではないでしょうか?何しろ、死にそうに喉が渇いているわけですから、誰にも迷惑をかけるわけでもなく、誰に咎められることもないのです。

 

ところが、もし、あなたの後ろに何人もの行列があったらどうでしょうか?何かの事情で、何百人もの喉が渇いた人がついてきているのです。

あなたが、その泉の水に手を伸ばしたのを見て、すぐ後ろの人も水を掬います。また、その次の人も・・。もう、我先にと大騒ぎです。なかには泉に飛び込んで、水をがぶ飲みする人まで出てきます。結局、泉の水はすっかり減ってしまい、汚れてもう誰も飲めなくなりました。

 

確かに、あなたは泉の水を汚してもいませんし、枯れるほどにも飲んでいません。しかし、最初に手を出したのはあなたです。すべてはあなたの責任ですか?どうでしょう? 

 

これが、地球環境問題の本質なのです。環境問題というのは、最終的には程度の問題です。

人がよりよく生きていこうとすれば、何かしらの放出が増えます。どこまでを許容し、どこからを規制するのか?悩ましいですよね。

 

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