関東大震災では東京市民の6割が家を失った

今日は「防災の日」です。1923年(大正12年)9月1日土曜日の午前11時58分に、マグニチュード7.9の巨大地震が首都圏を襲いました。関東大震災です。

 

当時の東京の人口は約250万人でしたが、発災後数日間の死者が約10万5千人。全壊・全焼・流出した家屋は約30万棟とされています。この頃の1棟には平均5人が住んでいたので、250万人の市民の6割に当たる150万人が家を失ったわけです。

 

倉敷市立美術館所蔵
倉敷市立美術館所蔵

発災が正午前という昼食の準備をする時間帯に起きたのは不運でした。当時は、かまどや七輪で煮炊きをしているので、火事が起こるのは必然でした。

ただ、この火災が激しかったのは1日の夜までで、2日には概ね鎮火しました。

 

何故、火災が短時間で鎮火したのかというと、ちょうど発災時に台風が中部地方を縦断して富山湾に抜けたところで、東京では最大12mの非常に強い南風が吹いていたのです。この強風にあおられて、当時の木造家屋の類焼が続いて、あっという間に東京が焼け野原になりました。当時で、世界最先端で最強と言われた東京の消防力も、結果的には無力でした。

 

火勢に追われて焼け野原となったなか、繰り返される余震におびえている市民の精神状態は尋常ではなかったと思います。食料も衣料もないですし、水すら手に入りません。橋の多くが崩落したため道路も鉄道も使えません。水道も通信も全滅です。東京の外からの救援もなかなか期待できそうにないと暗い気持ちになりそうです。実際のところ、東京市が150万人の被災民に2日夜までに届けられた食料は僅か25万食だったと言われています。

 

しかし、関東大震災での救援活動は被害の巨大さに対して、驚くほど迅速かつ広範囲に進みました。江戸時代から繰り返されてきた大火の歴史が、被災者への炊き出しなどで効果を示したという側面があります。もちろん、暖かい季節であったことも幸運でした。

 

本郷の前田家などが屋敷を開放して避難民を収容したとか、3日朝には群馬県から救援部隊(最大3千人)が早くも到着したとか、4日には仮設住宅の建設がはじまったとか、組織的な準備がされていなかったにも関わらず、迅速な対応が自発的、自治的になされています。

このあたりが日本の持つ本来の強靭さだと思います。

 

もっとも、今回のコロナウイルスでは、敵が弱すぎたので、日本の強さが空回りしてしまったという印象です。返す返すも、残念でした。