駅伝は最初から新聞社の宣伝目的

新春の箱根駅伝は駒澤大学の逆転で総合優勝となりました。新興の創価大学が頑張って、往路優勝・総合2位と大健闘しました。往路で出遅れた青山学院大学は、復路優勝・総合4位と面目躍如です。(総合3位は東洋大学・5位は東海大学)

 

箱根駅伝の公式webサイトの「箱根駅伝とは」によると、以下の記述があります。

駅伝のはじまりは「東海道駅伝」:競技としての最初の駅伝競走は1917年(大正6)、東京奠都50周年を記念して開催された「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」といわれています。関東と関西の2チームが出場し、京都三条大橋-上野不忍池間約516キロを23区間に分け、3日間、昼夜を問わず走り継ぐ壮大なたすきリレーとなりました。この大会の成功が箱根駅伝構想のきっかけとなりました。

 

東海道駅伝のゴール:上野不忍池
東海道駅伝のゴール:上野不忍池

「奠都(てんと)」は、都の位置を決めるという意味です。明治維新で京から東京に都を移す「遷都」より以前に、東京にも都を設ける(京の都は廃していない)「奠都」がおこなわれたという意味です。

 

この「東海道駅伝」ですが、読売新聞主催のスポーツイベントでした。現在の箱根駅伝と同じです。

新聞社の宣伝広告には駅伝はよくマッチするのだと、妙に納得します。

 

東海道駅伝は、東西対抗でした。関東組は東京高師・一高の学生を中心にした混成チーム、関西組は愛知一中の単独チームです。

 

関東組は今でいう大学生・大学院生が中心で、関西組は高校生が中心ですから、勝負は関東組が優位なことは最初から分かっているようなものです。大差がついて当然ですが、実際は大接戦となりました。第19区(三島~箱根)を終えた段階では関西組が関東組を10分リードです。

 

これには、ちょっとしたアクシデントがあって、第13区(見附~掛川:17km)の関東組の吉積選手がスタートから約4kmの地点でアキレス腱を痛めて走れなくなりました。そこで、第14区(掛川~藤枝:28km)を走る秋葉選手が、自動車で吉積選手が走れなくなった地点まで戻って、1人でほぼ2区間を走って襷をつないだのです。

第12区を終わって26分遅れていた関西組は、逆に第14区で35分のアドバンテージを得ることになりました。この差を、何とか第19区までは維持していたわけです。

 

第20区から23区までの4区間97kmが、箱根~上野で現在の箱根駅伝とほぼ同じコースになります。関東組は第20区(箱根~国府津:20km)で関西組を抜くと、第21区(国府津~藤沢:28km)を終えて14分のリードを得ます。

第22区(藤沢~川崎:23km)で、今度は関西組にアクシデントです。16歳の小堀選手が、中継まで700mのところで空腹から動けなくなってしまいました。そこで、アンカーの日比野選手(なんと、愛知一中の前校長先生で52歳です)がやはり自動車で戻って、そこから走ります。この時点で、関西組は関東組に45分の遅れです。

 

関東組のアンカーはオリンピックランナーの金栗四三選手です。第23区(川崎~上野:26km)を1時間26分で走りきり、関東組の勝利となりました。大正6年4月29日11時34分のことです。日比野選手は23区に2時間8分かかってしまったので、不忍池には0時58分に到着しました。

 

尚、この第20区から23区までの4区間97kmを関東組は7時間54分で走りました。今回の青山学院大学の復路5区間109.6kmは5時間25分でした。