監視国家は幸福なのだろうか?

社会を構成する全員が平等に監視の対象となる「ミラーハウス社会」という概念があります。

 

コロナ騒動によって、俄かに盛り上がっている、行政の効率化、デジタル化、縦割行政打破、などの先にあるのは「ミラーハウス社会」のような気がします。この分野で、先駆的な取組をしている中国や韓国を、無闇に称賛する情報も増えています。

 

としまえんのミラーハウス
としまえんのミラーハウス

「ミラーハウス社会」を称賛している人、マスコミやワイドショーのコメンテーターなどは、恐らく本質を理解していないのだろうと思います。

 

もしかしたら、何でもお上にやってもらえるなら、便利じゃないかといった軽いノリなのかも知れません。

すべての手続きが、スマホでできる社会というのは、全ての情報がお上の手にある社会です。そして、その情報は事実上は全ての他人にさらされているわけです。

 

大屋雄裕さんに、『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』『自由か、さもなくば幸福か?──二一世紀の<あり得べき社会>を問う』といった著書があります。

 

「ミラーハウス社会」は、偏らない取り扱いという一応の正義にかなったものである。そのなかで各個人は(社会のルールに抵触しない範囲で)それぞれの生き方を追求する自由を保障されている。自己の人生に対する暴力的な侵害が防がれるだろうという信頼を持つことができる。これは次善の選択肢として、あるいは少なくとも受忍可能な状態として、積極的に評価し得るのものではないだろうか。

 

世界では、独裁者に支配される状況を望む人がかなりいます。今の日本では、独裁者に支配される世界を望む人はまだ少数でしょう。しかし、独裁者の庇護の下で、国民は平等であるならそれでよいと考えることは可能です。

北のように独裁者が1人の個人である場合は好悪の評価は容易ですが、中のように独裁者が集団であれば評価は難しくなり、南のように独裁者がときどき入れ替わるとややこしいです。

 

日本でも、独裁者でなくテクノロジーであれば、それに支配される世界を望む人が増えているように思います。テクノロジーによる支配であっても、その本質は同じです。テクノロジーの下での平等社会が、本当に幸福なのかは疑問のように思っています。