経営者には幕末の薩長土肥の殿様がいい

幕末において開明的だった薩長土肥の4藩から新政府に多くの人材が送り込まれました。

 

初期の明治政府は首相がいないので、参議(1人あるいは数名で)が首班の役割を果たしていました。参議となったのは、幕臣であった勝海舟を除けば薩摩藩から10人(西郷隆盛・大久保利通など)、長州藩から6人(伊藤博文・山縣有朋など)、土佐藩から6人(板垣退助・後藤象二郎など)、肥前藩から4人(大隈重信・江藤新平など)の4藩からだけです。

 

毛利敬親公
毛利敬親公

 

この4つの藩は地理的も隣接しているわけでもなく、あまり関りがなさそうですが、幕末明治をむかえたときの殿様に共通点があるように思います。

薩摩は島津斉彬、長州は毛利敬親、土佐は山内容堂、肥前は鍋島直正が幕末の殿様です。

 

最初に、我が山口の毛利敬親公ですが、「そうせい公」とあだ名されたように、家臣が何かやりたいと言えば「そうせい」と何でも任せてしまう殿様だったそうです。

人を見る目がある殿様だったようで、吉田松陰や高杉晋作、大村益次郎などは敬親公でなければ見出されることはなかったようです。

 

敬親公に似ているのが土佐の山内容堂公です。酒と風流を愛した豪放磊落な殿様で、ある意味で自由自在の人。坂本龍馬が発案した「船中八策」を後藤象二郎から進言されて、将軍徳川慶喜に大政奉還を建白しました。優秀な人、合理的な意見は何でも取り入れた人のようです。

 

一方で、島津斉彬公と鍋島直正公は、自ら西洋技術の導入と学問の奨励に奮闘しました。

薩摩では、日本最初の様式産業群である集成館事業が興ります。様式帆船「いろは丸」や国産初の蒸気船「雲行丸」を建造しました。

佐賀藩は長崎出島の監理をしていたことから西洋の情報をいち早く入手しました。ペリー来航時に日本で鉄製大砲を製造できていたのは肥前藩だけでした。

薩摩と肥前の殿様は優秀な人を見極めるより、自前で優秀な人物を育成したわけです。

 

4人の殿様に共通するのは、人を見極めて、人を育てることに尽くしたことだと思います。

偉い社長が率いる会社より、優れた社員がいる会社のほうが発展もしますし、長続きもします。時代を超えて、尊敬される会社になるには、社員をどう育てて、育てた社員に活躍できる場を与えられるかということです。

そのとき、経営者はあまり有名にならない方がいいですね。