東京の道や講演が整備されたのは関東大震災からの復興が大きなきっかけになっています。
関東大震災の復興で整備された道路は174路線260㎞です。関東大震災は大正12年に起こっていますが、道路整備が終わるときには元号が昭和になっていました。そこで、明治通り(環状線)、大正通り(東西)、昭和通り(南北)と名付けた3本の道路で東京の骨格を作り直したというわけです。
大東京はあまりにも巨大で、航空写真で見ても俯瞰することは困難です。それでも、環状道路と幹線道路が効率的に配置されていることは何となくわかります。
また、東京に公園が多いのも関東大震災後の復興公園が貢献しています。三大復興公園といわれる隅田公園・錦糸公園・浜町公園に加えて52の小公園を新設しました。
また、既設公園の整備拡張もおこなわれたので東京は緑豊かな都市となりました。
建築物の近代化も一気に進み、それまでは木造建築ばかりだった東京に鉄筋コンクリート造りの施設が多数建設されました。昨年豊洲に移動した築地の中央卸売市場も関東大震災の復興施設の一つです。
しかし、関東大震災(とその後の大火)と言えども東京を完全に焼失させたわけではありません。焼失を免れた地域は、再開発されずに旧来のままの街が残りました。ときの政府としては、全ての地域に手を入れて再開発したかったようですが、住民は納得しなかったようです。
さらに都心が整備されたことで、当時は住む人の少なかった東京市街の周辺地域に地方から多くの人が集まります。関東大震災の直後には300万人を下回った東京都の人口は20年足らず後の昭和15年には750万人にまで膨張します。
その後、太平洋戦争に突入して東京は空襲で関東大震災を超えて焼失します。人口は半減して350万人を下回るということになりました。ここでも復興計画は立案されたのですが、関東大震災後の復興に比べて小粒なものとなり、抜本的な事業はできませんでした。
その後、戦後復興によって東京への人口再流入は加速していきます。東京の都市復興計画は昭和39年の東京オリンピックに向けて進められることになりました。