宇部の褐炭、美祢の無煙炭

石炭は若い(石炭化が進んでいない)ものから、褐炭→瀝青炭→無煙炭となります。

 

山口県は、石狩・常磐・筑豊と並ぶ日本の石炭産地でした。そのなかでも宇部市から旧小野田市に分布する宇部炭田は江戸時代前期の1650年頃には燃料としての使用が始まっていたようです。一方で、宇部炭田と隣接して美祢市から旧山陽町に分布する美祢炭田(大嶺炭田)は明治になってから開発されました。

 

大嶺炭田 荒川水平坑跡
大嶺炭田 荒川水平坑跡(Mine秋吉台ジオパークにリンク)

隣り合っている二つの炭田ですが、実に大きな違いがあります。宇部の石炭は褐炭(有煙炭)で、美祢の石炭は無煙炭です。

 

宇部の石炭が約5000万年前の地層から採掘されるのに対して、美祢の石炭は2億年前の地層にあります。美祢の石炭のほうが、ずっと古いので石炭化が進んで、水分もずっと下がって無煙炭化しているわけです。

 

昔の小学校の教科書には「世界一の品質、大嶺炭田の無煙炭」と誇らしげに書いてありました。大嶺の無煙炭は単位重量当たりの発熱量が高く、宇部の石炭と比べても2倍以上もありました。ちなみに、石炭化は年代が古いほど進むという単純なものではなく大嶺炭田より古い地層でも無煙化していない石炭もあります。

 

宇部の褐炭は小野田市の焼野海岸のように地表に露出しているところもあって、見つけやすく掘りやすいので江戸時代から利用されていました。最初は薪炭の代わりとしてですが、毛利藩が製塩事業に乗り出すとその燃料となり藩の財政を支えます。幕末になると、米英の蒸気船に燃料として販売して大きな利益を上げたりもしました。これが、長州藩が明治維新に大きな役割を残せた経済基盤です。さらに明治になると、小野田の笠井順八(小野田セメントなどの創業者)、宇部の渡辺祐策(宇部興産の創業者)といった実業家がセメント製造などで成功していきます。

 

大嶺炭田の開発は時代が下がって明治に入ってからです。本格的には渋沢栄一(新しい1万円札の肖像になる)などが明治30年に設立した長門無煙株式会社によって採炭量を増やしていきました。

 

明治38年、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊が勝利した背景には、大嶺の無煙炭が大いに貢献したと言われています。

 

日露戦争は日本とロシアが朝鮮半島の権益を争った戦いです。日本にとって既に満州を制圧していたロシアに朝鮮半島まで支配されるのは許されません。当時は弱肉強食の時代で、欧米列強によって日本以外のアジアは植民地化されていました。朝鮮半島をロシアが取れば、次は日本に侵攻してくるのは容易に想像できました。

 

そこで、日本は無謀にもロシアとの戦いを決断します。世界最強のロシア軍に有色人種として未開人扱いされていた日本軍に勝ち目は薄かったのですがやむを得ません。

 

この日露戦争の雌雄を決したのが日本海海戦であり、石炭です。当時の軍艦は石炭を燃料にしていました。有煙炭を使用していたロシアのバルチック艦隊は、隠密行動中に煙突から出る煤煙によって連合艦隊に先に発見されてしまいます。

一方で、連合艦隊が使う大嶺の石炭は無煙炭です。そのうえ、ロシア軍艦が積んでいる石炭の2倍以上の熱量があるのです。このため、戦艦の運動性能には大差がつきました。東郷平八郎が、世界の海軍史に残る敵前大回頭(東郷ターン)といった離れ業をおこなって勝利できたのは、大嶺の石炭があってこそでした。

 

歴史のifですが、もし大嶺炭田の開発が遅れていて、日本海海戦に日本が破れていたなら、現在の朝鮮半島はロシア領だった?かも知れません。もしかすると、日本列島も・・・?