門司港駅復原で世界経済の将来を考える

北九州市にある「門司港駅」は、6年間の保存修理工事を終え3月10日にオープンしました。

 

新橋と横浜の間に鉄道が敷かれたのは明治5年(1872年)のことです。九州の鉄道は博多駅と千歳川駅(佐賀県鳥栖市)間が明治22年(1889年)に開通し、明治24年(1891年)に門司港駅と遠賀川駅間が開通しました。今回復原工事が終了した門司港駅の駅舎は大正3年(1914年)に建設されたものです。

 

門司港駅復原(2019年3月)
門司港駅復原(2019年3月)

門司港駅の駅舎は国の重要文化財でもあり、見に行きたいという人が日本でも有数に多い駅です。

門司港レトロ地区のなかにあって、大正時代の趣を残す建物のつくる風景に溶け込んでいます。※正確にいうと、レトロ地区の建物は、明治42年~昭和2年に建てられたもの。

 

門司港駅の隣には、当時の九州鉄道の本社建物を利用した九州鉄道博物館があって、多くの鉄道ファンが訪れます。また、門司港駅は九州の鉄道の始発駅(終着駅)ですから、珍しい頭端式ホームの駅です。JR九州では他には長崎駅だけです。

 

復原が叶った美しい門司港駅は、発展していた北九州地域の象徴の一つです。この発展をもたらしたのは石炭です。当時の日本では石炭が産出される地域が豊かで、多くの炭鉱王が産まれ、石炭の富が優れた産業や技術を創り出しました。

 

元福岡藩士だった安川敬一郎が明治炭鉱を開発したのが明治19年、赤池炭鉱の開発が明治22年です。安川は炭鉱からの大きな利益で、明治40年に明治専門学校(九州工業大学)を設立します。また、安川電機や黒崎窯業(黒崎播磨)など今も続く大企業を創業しました。

 

冨を産み出す炭鉱には労働者が必要です。筑豊で働いた労働者の多くは、広島県や愛媛県からやってきました。山口県は県内に美祢や宇部小野田に炭鉱があって豊かなのですが、広島県や愛媛県は相対的に貧しかったのです。私の曽祖父なども、若い頃には広島から筑豊に働きに行っていた一人です。遠賀川で石炭を運ぶ船を操っていたと話していました。

 

その後、筑豊の炭鉱は昭和40年代までに次々に閉山していくわけです。

現在の世界経済を俯瞰すると、石油や石炭を産出する国が豊かです。それらの国々には、資源を持たない国から多くの人が集まり、優れた技術や産業が産まれます。

しかし、地下資源はいつかは枯渇します。それまでに得られる富をどんな形を変えておくのかが大事です。資源に乏しい日本は、その富の変換にどう関わっていくのかが問われます。世界経済の将来を関門海峡を眺めながら考えています。