松江藩中興の祖 松平不昧のお話(その1)

松平不昧(不昧公)として有名な松平治郷は松江藩第七代藩主です。

 

治郷は経済的に困窮していた松江藩を再興して、中興の祖とされる名君です。一方で、不昧流の茶道を興して、古今東西の名茶器を収集した茶人大名としても知られます。また、いろいろな和菓子を考案したことから、松江に菓子文化も根付かせました。

 

松平不昧(島根県のWebサイトより)
松平不昧(島根県のWebサイトより)

徳川の時代になると関ケ原の合戦で功績があった堀尾吉晴が松江藩24万石の最初の藩主となります。しかし、堀尾家は跡継ぎに恵まれず吉晴から三代で断絶します。代わりに京極忠高が藩主として赴任しましたが、これまた、わずか4年で亡くなりました。

 

そこで、徳川家康の孫にあたる松平直政が信州松本から松江に入ります。その後、明治維新を迎えるまでの230年間は松平氏が松江藩を統治します。

松平治郷は松江藩第七代藩主(堀尾吉晴から十代目)です。1751年に生まれて1818年に68歳で亡くなっています。1751年生まれというのはは、奇しくも同じ江戸時代中期の名君、米沢藩の上杉鷹山と同じ年です。

 

1767年から1806年までの40年間が、治郷の松江藩主としての時代になります。この治郷の治世の前半分1767年から1786年が、いわゆる田沼時代です。老中田沼意次が主導して商業重視の政策がとられて都市(特に江戸)に人口が集中する一方で、農村・地方が疲弊していきました。また、その最中の1782年から1787年にかけて、近世史で最大最悪の天明の大飢饉が日本を襲います。

 

この記録的な低温による冷害は、アイスランドのラキ火山の巨大噴火をきっかけにしてもたらされたものです。ヨーロッパでは噴出した硫黄酸化物での直接的な死者も多数発生しましたが、世界的に異常気象をもらたしました。

  

もともと日本海側に面して雪や雨が多く、中国山地の山並みが海岸線まで達して平野も少ない松江藩では困窮すること必至でした。それを乗り切ったのは、治郷の卓越した政治力であったと言われています。

治郷の政治を「御立派(おたては)の改革」というのですが、続きは明日にします。