西鶴の時代の海運

江戸時代の前期における大量輸送・長距離輸送は海運が担っていました。

 

西鶴の時代(江戸時代前期:17世紀)の日本は三都(江戸・京都・大阪)と長崎の4つの拠点を中心にして経済活動が廻っていました。

 

江戸は、幕府がおかれた政治の中心として栄えました。1650年には人口40万人でしたが、1700年には100万人に及ぶ世界最大の都市に発展します。参勤交代で各地の大名が江戸に集まり、広壮な屋敷を構えるなどしますから、巨大な消費都市として物品が集まっていきます。

 

 江戸に向かって物品を供給したのが、点火の台所と言われた大阪です。1650年に人口20万人を超えていた大阪には、全国各地から物品が集荷されてきました。

 あらゆる物資の価格は大阪で決められ、金銀銭の為替相場なども支配していました。

 

この全国の物品の製造や開発を支えたいたのが、京都です。1650年には江戸と同じ40万人の人口を誇った京都は、当時最先端の製造業の技術がありました。西陣織や伏見の酒など、京都ブランドは憧れの存在です。

 

また、この三都と並んで重要な年が長崎です。人口5万人という規模ですが、貿易の窓口として輸入・輸出を引き受けていました。

 

当時の開運で最大のルートは、江戸と大阪を結ぶ菱垣廻船という民営の廻船組織です。菱垣廻船は早くも1619年に成立しています。遅れて、1730年にできた樽廻船とともに幕末まで日本の海上輸送の大動脈を支えます。ちなみに、廻船というのは運賃をとって運ぶ運輸業者のことです。江戸と東日本・東北を結ぶ東回り廻船も1671年にできています。

 

京都と大阪の間は淀川の水運が支えました。川での輸送は下流に向かうのはいいのですが、上流には向かいにくいです。しかし、京都の中心は標高20~30mくらいですから、淀川はゆっくり流れていました。

 

長崎から瀬戸内海を通り大阪に向かうのは西廻り航路です。日本海側を廻って一周するのが北前船です。こちらの航路は、廻船とは異なり買積船といって船主が物資を買って運んでいました。江戸時代の早い時期に、日本列島を一周する定期商業航路が確立していたのです。