西鶴の時代=人口爆発を支えた「勤勉革命」

一昨日のブログ:常盤湖の築堤が始まったのは西鶴の没後2年;1695年のことです。

 

弥生時代以降、日本の人口が爆発的に増加するのは2回です。

一つは、明治維新から21世紀初めの時期です。

3481万人(1872年)から1億2693万人(2008年)に130年余りで3.64倍増加しました。

 

もう一つが、西鶴の生きた江戸時代の前半です。

1227万人(1600年)から3128万人(1721年)に120年余りで2.55倍増加しました。

関ケ原の戦いを最後に戦国乱世の時代が終わって、徳川幕府が安定政権をつくったことで、人口が大幅に増えました。 

興味深いのは、この二つの人口爆発の間の、1721年から1872年の100年間で日本の人口は僅かに10%しか増えていません。ほとんど横ばいです。

 

つまり、江戸時代の後半は平和な時代でも人口が増えていません。この理由は、当時の日本の生産力が人口にして3000万人余りを養うのがギリギリだったからです。

米や野菜などの食料も、薪や木炭などの燃料も、輸入することができない時代ですから、国内で生産する分で賄える人口が3000万人です。

明治維新になって、海外からの輸入が増えるにしたがって人口は増加していきます。

 

江戸時代の前半の人口増加に対応するためには、農業生産を大幅に増やす必要があります。そこで、かんがい治水事業が日本中でおこなわれました。その一つが宇部市の常盤湖です。

それでは、この間に農地がどれくらい増えたかと言えば、1600年に220万ヘクタールだった農地が1721年に296万ヘクタールになっています。増えていますが、1.35倍です。

ちなみに現在の日本の農地面積は約410万ヘクタールです。

 

農地が1.35倍しか増えないのに、2.55倍の人口を賄えたというのは、単位面積当たりの農業生産性が2倍近くになっていたことを表します。

これが、「勤勉革命」と呼ばれる日本の農業革命です。

 

鎌倉時代までは荘園農業の時代でした。領主のもとで農民は働かされる存在です。

室町時代になると荘園支配が緩んできますが、代わって大名の支配が強まります。

戦国時代になると、大名に動員される農民は兵隊でもありました。

ここまでの時代の農民は勤勉に働くモチベーションが持ちにくかったのです。

 

江戸時代になり、兵農分離され農民は農業だけに従事するようになります。同時に、農村にも市場経済が急速に浸透していきます。無理やり働かされていた農民が、農業生産を上げただけの収入を得ることが可能になりました。

農業は小作を使うような大規模なものは減って、家族だけでおこなうようになってきます。市場経済の下での家族経営のメリットは、忙しければ少々の無理をしてでも勤勉に仕事をすることで収入が増えることです。それがそのまま家族の生活の向上につながります。

この「勤勉革命」と農業技術の進歩が相まって、大幅な食料増産が達成され、人口爆発を支えたのです。