西鶴の「暦」 浄瑠璃の題です

西鶴には浄瑠璃「暦」という作品があります。加賀藩から注文を受けて書いた本です。

 

西鶴の時代は、文楽(人形浄瑠璃)の語り部分が独立して、浄瑠璃・義太夫という新しい芸能のジャンルが流行していました。西鶴には「暦」と「凱陣八島」という二つの浄瑠璃作品があります。

 

「暦」という題名が面白いですよね。

このブログでは、暦に関しては何度か書いていますが、もうちょっとだけ書きます。

 

 当時は、太陽太陰暦というもので、太陰暦を基準にして、太陽暦との不都合を閏月を入れて合わせるという暦です。

 

江戸時代の初めまで、日本の暦は中国から輸入されていたものを使っていました。宣明暦というもので、なんと西暦862年に日本に伝わり、以降800年以上に渡って同じ暦が使われていたのです。それだけ優れた暦だったのですが、さすがに長年の間にズレが生じていて、江戸時代の初めには2日ほど節気が早まるようになっていました。

 

 

ここに登場するのが、渋川春海です。小説・映画「天地明察」の主人公のモデルになった人です。春海は1639年生れですから、西鶴より3歳年長です。

春海は江戸幕府の碁方である安井家の長子(二世安井算哲です。)として生まれました。囲碁は、本因坊・井上・安井・林の四家が家元です。当時の囲碁界では最強クラスの棋士です。

 

春海は囲碁の傍ら、数学と天文学に大いに興味を示して勉強を続けます。

その成果が、日本で最初の国産暦である大和暦です。1685年、ついに宣明暦は廃止となり、春海がつくった大和暦が当時の年号を称して貞享暦として採用されました。

ときに春海47歳、西鶴は44歳です。

この改暦を題材にして、西鶴は「暦」という浄瑠璃を書き上げたのです。

 

その後、西鶴は10年を経ず1693年に亡くなりますが、春海は76歳の天寿を全うします。貞享暦の功績から、幕府の天文方に就任した春海は、日本初の地球儀や天球儀を製作するなど、天文学と暦学の発展に大いに貢献しました。

 

ちなみに、渋川春海は日本最初の天文学者といって過言ではなく、自ら多くの天文観測をおこなっています。貞享暦も非常に精度が高い素晴らしいものでした。

しかし、これが採用された背景には、囲碁の家元として将軍徳川家綱や綱吉、前の副将軍水戸光圀、幕閣の中心にいた保科正之などと親しい関係にあったことも大いに影響しています。

 

ついでですが、1985年に慌てて改暦したのは、宣明暦だとその年に閏月があって13カ月分の給料を支払わなければいけなかったので、人件費削減のためだったとも言われています。

ちょっと、世知辛いですね・・