西鶴は芭蕉との戦いを回避した

井原西鶴と松尾芭蕉は同時期に活躍しており、共に意識し合ったライバルでした。

 

西鶴と芭蕉の簡単な年表です。

西鶴が2歳ほど年長です。西鶴は52歳・芭蕉は51歳のとき大阪で亡くなりました。

  井原西鶴 松尾芭蕉
1640年 1642年 大阪に生まれる  1644年 伊賀上野に生まれる 
1650年    
1660年 1662年 俳諧の点者になる  
1670年

1673年 「生玉万句」(処女俳諧集)

 「西鶴大句教」「西鶴大矢数」など

俳諧師として成功する

1673年 「貝おほひ」(処女句集)

1675年 江戸に下る

1678年 「江戸三吟」

1680年

1682年 「好色一代男」(浮世草子)

1686年 「好色一代女」

1688年 「日本永代蔵」

1681年 俳号を「芭蕉」と改める

1684年 「野ざらし紀行」

1689年 「おくのほそ道」

1690年

1692年 「世間胸算用」

1693年 大阪で没す

1691年 「嵯峨日記」

1694年 旅先の大阪で没す

西鶴は、大阪の裕福な町人の子として生れました。15歳の頃には、俳諧師(俳諧を専業とするプロ)になっていたそうです。20歳で俳諧の点者(俳諧の優劣を審査するプロ)になりました。多くの俳諧を発表して、俳諧師としての高名を高めた後に、31歳のときに処女俳諧撰集「生玉万句」を出版しました。その後、36歳のときの「西鶴大句教」、38歳で「西鶴大矢数」などを出版して、大阪だけでなく日本でその名を知らぬものが無いほどの成功した俳諧師となりました。随分と経済的にも成功していたわけです。

 

その西鶴は、40歳の時に作家に転身します。ご存知「好色一代男」を出版して、大好評を得ます。一躍大人気作家となって、好色物シリーズから、武家物・町人物・雑話物と多彩なジャンルで多くの作品を出版し続けます。下世話な言い方ですが、大流行作家であり、大金持ちでもありました。

 

一方の芭蕉は、伊賀上野の農民の子、あるいは最下級の武士の子として生れました。今で言えば予備役のようなもので、普段は農民ですが戦があれば動員されるわけです。芭蕉は伊賀上野で俳諧に親しんでいたようで、28歳の時に処女句集「貝おほひ」を上野天満宮に奉納しています。30歳で上京して工事現場で働きながら、34歳で俳諧師(プロ)となります。西鶴に遅れること20年です。苦しい生活を続けていました。

 

36歳で「芭蕉」と俳号を改めた後の活躍はよく知られたところです。40歳で「野ざらし紀行」の旅に出て、43歳で「更科紀行」、45歳で「奥の細道」、47歳で「猿蓑」、48歳で「嵯峨日記」の旅に出ます。西鶴との違いは、これらの旅に出て素晴らしい句を創作して、多くの弟子を集めて高名は天井知らずですが、貧しかったことです。「奥の細道」にしても、出版されたのは芭蕉51歳。死の直前でした。

 

西鶴が何故、俳諧師から作家に転身したのかは謎ですが、芭蕉というライバルの存在があったのかも知れません。当時の大阪は日本経済の中心であり、そこで軽妙洒脱な俳諧で人気を博して大金持ちになった西鶴。苦労を重ねて、文化や政治の中心である江戸深川のほとりに貧しい庵を結んで、わびやさびの俳諧で弟子を集める芭蕉。

 

西鶴は既に成功を遂げていた俳諧という分野で、新しく誕生した芭蕉という大スターと争うことを嫌ったのでしょうか。現在に至って俳諧の分野で、芭蕉は西鶴を大きく超える評価を得ています。

そして、西鶴は浮世草子と言うブルーオーシャンに船出して、偉大な成功を遂げます。その成功は名誉や名声だけでなく、出版によりビジネスとビッグマネーというかたちでも達成されました。

 

そんな成功者に思える西鶴ですが、50歳を過ぎて亡くなるまでの2年間は、なぜか俳諧師に立ち戻ります。熊野に吟行に出掛けるなど、積極的に活動をしました。

西鶴 辞世の句は

「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」

~意味:(人生50年というので) わたしは浮世の月を2年分余分に観たことになるなぁ。~