日本永代蔵より(28)・・・買置きは世の心安い時

日曜連載は、井原西鶴の「日本永代蔵:現代版アレンジ」です。第二十八回。

 

”泉州に隠れなき小刀屋の薬代” (堺市で評判の高い問屋の薬代のエピソード)

 

堺市に海外からの輸入品を取り扱う小刀屋という問屋があった。ここの主人は、正直な商売をすると評判で、会社は繁盛している。主人は、四十歳を過ぎてからは、毎年正月に遺言書を残すのが習慣になっている。

 

昔から堺市には代々の金持ちが多く、底の知れないほどの大富豪もたくさんいる。

五代も前の先祖から、高価な骨董品や美術品を受け継いで財宝殿をつくって収めているもののいる。バブルに乗じて稼ぎに稼いだ資金を使うことなく溜め込んでいるものもいる。金持ち同士の結婚では、嫁入りの持参金が五千万円あっても一円も手を付けず、その娘が嫁ぐときに持たせたもののいる。堺の街の金持ちは、一様に金銭感覚が正確で、外見以上に内実が豊かなものが多い。

 

小刀屋はこういう代々の金持ちとは違って、一代で財を成した。40歳のときの遺言書には遺産1000万円を書いていたのが、25年間自分一人の才覚で仕事を伸ばして、毎年遺産の額は増えていき、臨終のときには30億円の遺産を一子に残した。

 

小刀屋が世間に知られて、繁盛するきっかけは、その頃中国に新しく進出した縫製工場がつくる製品の品質が高いことに目をつけたこと。小刀屋は、労働コストは必ず上がるので、この品質の製品をこのコストで作れる期間は長続きしないと考えた。

付き合いの深い友人たちから、一人1000万円づつ、合計1億円の資金を借りて、高級衣類をつくらせて一括で買い付けた。その衣類をすぐには販売しないで、時期を選んで売り出したところ1億円の借金を返しても7000万円の利益が残った。

 

この喜びもつかの間、一人息子が大病を患った。大病院に入院して懸命の治療をしたが、全く効果がない。手立ても尽き果てて、嘆いているときに、友人から「小さな病院だが、この病気の名医がいる」と紹介された。あきらめかけていたところなので、内心は不安であったが、その医者にかかることにした。

 

すると、少しづつ息子の病状は改善をしていった。ところが、あるところから病状は一進一退となった。小刀屋の主人は、親戚たちと相談して、これは再び大病院の有名な医者のところに転院させたほうがよかろうということになった。ところが、転院させると、息子の病状はどんどん悪化して、死の手前にまで来てしまった。

 

小刀屋の夫婦は、前の医師を紹介してくれた友人を訪ねて、恥を忍んで頼み込んだ。「もはや、息子は助からないものとあきらめているが、何とか手を尽くしたい」と。すると、半年余りの治療で、息子はすっかり元気を取り戻した。小病院の貧乏医師ではあるが、これは当に名医である。

 

小刀屋は、紹介してくれた友人のところに行って、「今日は吉日なので、治療費とは別に、医師に謝礼を払いたいので、取り次いでくれないか」と頼んだ。紹介してくれた友人が、「それでは100万円くらいの謝礼でどうか」と言うと、友人の妻は「それは少し多すぎる。50万円くらいのものでしょ」と言う。

 

小刀屋の夫婦は、「いやいや、先ずは2500万円の謝礼と、医者が欲しがっていた最新の医療機器を寄付する」と言い出した。友人が止めるのも、医師が再三に渡って辞退するのも聞かず、謝礼を渡したうえに、更に2500万円を出して医院を改築してやった。これが評判となり、元が名医だった医師は、次第に流行って病院も繁盛した。

 

言うだけなら簡単なことだが、当時の小刀屋夫妻の全財産はせいぜい1億円くらい。全財産の半分を投げ出すような太っ腹はなかなかいない。この心がけが、それからの小刀屋を大きく繁盛させたのだという。