ウルトラハンドからポケモンGO!へ

京都の花札メーカーだった任天堂が、最初に発売したおもちゃがウルトラハンドです。

 

ウルトラハンド     
ウルトラハンド     

宇部でも、ポケモンGOを楽しむ若者たちを目にします。ポケモンは任天堂が産んだキャラクターです。

 

任天堂が、ウルトラハンドを発売したのは1967年です。私は6歳ですが、遊んだ記憶があります。家にあったのか?近所の友達のところにあったのかは忘れましたが、後者かなぁと思います。

とにかく、大ヒットしたおもちゃです。

ジャバラになったアームを引っ張って、先っちょの吸盤でボールなどを摘まむという単純なものです。

 

京都の花札メーカーだった任天堂は、この頃に業容を拡大しようとしていました。最初に手掛けたのが、ディズニートランプです。これが、大ヒットしました。

今では考えられませんが、1960年代のトランプは大人がバクチに使うもので、子どもが遊ぶものではなかったのです。任天堂は、ディズニーのアニメが描かれたトランプに、ババ抜きやページワンなど簡単なトランプゲームのルールを載せた冊子を付けて販売しました。

 

このディズニートランプの儲けで、初めて採用した大卒社員が「ゲームの父」横井軍平です。京都の同志社大学工学部を卒業して1965年に入社しています。

入社して最初の仕事は、花札をつくるときに使う糊(接着剤)の攪拌機の改良だったそうです。花札は何枚かの紙を貼り合わせてつくるのですが、これが剥がれると目印になって、イカサマに使われたそうです。任天堂が花札のトップメーカーだったのは、糊の工夫などでめくれない花札をつくっていたからだそうです。

 

横井軍平は大卒第一号社員ですから、その当時の任天堂の社員には、いわゆる叩き上げの職人さんが多かったようです。横井は入社したものの暇を持て余していたようで、仕事をさぼって作ったのがウルトラハンドの原型で、遠くのものをただ掴むだけの道具でした。

これが山内社長の目に留まり、ゲームとして売り出そうということになったのです。横井は開発部に配置転換(と言っても、開発部員は横井ひとりだけです)になり、次々にヒット商品をつくりだします。

 

立て続けに、ピンポン玉を打つ子供用バッティングマシンであるウルトラマシン(これも遊んだ記憶があります。大ヒットしました。)、電動でアームが伸びるのぞきメガネであるウルトラスコープ(これは売れなかった)のウルトラ3部作ができました。

 

1970年代に入り、ルンバの原型?の遠隔操作の円型掃除機チリトリー、光線銃SP・光線電話LT・・などのスマッシュヒットを打ち続けて、1980年に世界初の携帯型液晶ゲーム機・ゲーム&ウォッチに到達します。

 

そして、1983年にファミリーコンピューターが開発されて、世界が一変するのです。私が就職した1984年には、任天堂は日経優良企業ランキング1位になっていました。

その横井の開発の集大成が、1989年に発売されたソフト交換型携帯ゲーム機・ゲームボーイです。ポケモンは、ゲームボーイ用のソフトとして、1996年に発売されました。

 

尚、横井軍平は1997年に交通事故で亡くなっています。享年56歳。