日本永代蔵より(23)・・・大豆一粒の光り堂

 日曜連載は、井原西鶴の「日本永代蔵:現代版アレンジ」です。第二十三回。

 

 ”大和に隠れなき木綿屋 借銭の書置き珍し”

 (奈良で有名な繊維会社。借入金の相続は珍しい。) 


 

 

 夫は小規模な畑を持って働き、妻は裁縫で身を立てているつつましい農家がありました。

 今は、何とか夫婦二人が生活できるほどの収入ですが、節分には鰯の頭と柊の枝で邪気を払い、豆も蒔いておりました。

 ある年のこと、蒔いた豆の一粒を畑の隅に埋めて、「奇跡がおこって豆の花が咲かないか」と願っていました。

 

 世の中には不思議なことは起こるものです。豆を埋めたところから、その年の夏に青々とした枝が成り、丹精して育てると秋には手のひら一杯分の豆がとれました。

 とれた豆を翌年も植えて、また丹精に育ててみると、また豆がとれました。これを十年繰り返すと、毎年の秋には10トンもの豆が収穫できるようになりました。

 何事も積もれば大願が成就するものだと、感謝した夫婦は近くの農道が暗くて危ないので、豆を売って儲けたお金で燈籠を建てました。豆燈籠と言って、近隣の人に喜ばれました。

 

 この夫婦は、豆だけでなく仕事に精進したので、少しづつ収入が増えていきました。近くの田畑を買い求め、従業員も雇って、大農家になっていきました。

 消費者が求める作物を選んで、栽培方法を工夫して、手間をかけながら生産しました。どんなときも油断をすることなく、慎重に生産をしていったので、この夫婦の畑の収量は、際立って高く評判になりました。

 

 夫は農業の道具にも工夫を凝らしました。農機具メーカーの担当者を呼んで、耕運機や田植え機などに独自の改善を加えて、省力化を達成していきました。

 綿花の栽培にも取り組んでいた夫は、綿糸の生産にも参入します。紡績機の工夫にも没頭して、生産性の高い工程をつくりあげ、紡績会社を設立します。ついには、自社で生産する綿花だけでは不足するようになり、初めは近隣から・後には海外からも大量の綿花を調達するようになります。

 

 紡績会社は多くの従業員を雇い入れ、拡張に拡張を重ねます。高品質で価格が合理的な夫婦の会社は、国内だけでなく海外にまで販路を伸ばしていきました。

 30年余りの努力によって、会社は毎年利益を上げ続け、社長である夫が88歳で亡くなったときには相当な遺産を残しておりました。

 

 生前の指示に基づいて、葬儀一式が終わった死後100日目に遺言状が開封されました。

 一人息子におよそ170億円の資産が単独相続させるとありました。遠縁の者や、会社の幹部社員や長年の従業員などには形ばかりの形見分けを譲ることが記してあるばかりで、少々の期待をしていた皆はがっかりしました。

 夫婦二人で、何の贅沢もせず、懸命な働きでつくった資産ですから、全てを一人息子に託したわけです。また、息子にも精勤するように、言い残しておりました。

 

 しかし、相続した息子としては会社幹部の協力は必要です。相続した資産から、幹部社員や従業員、協力会社などへ謝礼金を配ることをしました。

 この効果もあって、関係者の協力を得た会社は順調な事業承継が叶いました。

 

 息子の新社長は、あるとき大手商社からの招待を受けて、アメリカ視察に出掛けました。その帰りに、ラスベガスを訪れて案の定のギャンブルと女性にはまってしまいます。

 意見をしてくれる母も亡くなると、もう歯止めは聞きません。仕事はそっちのけで、海外のカジノと別荘を渡り歩く生活になってきました。

 

 会社の幹部や従業員も仕事をないがしろにするようになり、会社の業績は悪化する一方です。酒にも溺れた生活では長生きができるはずもなく、社長就任から8年で急逝してしましました。後には、まだ学生だった3人の息子が残されました。

 

 新社長も体の変調には気が付いていたようで、遺言状を用意していました。幹部社員や従業員は遺言の内容に期待満々です。ところが、遺言状を開封してビックリです。

 既に170億円の資産は全て使い果たしており、以下のように記してありました。

「京都の筒屋商店から2500万円の借金がある。これは悪い遊びのせいで命も危なかったときに援けてもらった金なので、長男が成人したら働いて返すこと。

 大阪の店に遊興費の未払い分が合わせて1500万円ほどあるのを、別紙に箇条書きにしてあるので、二男が返すこと。

 そのほかの借金は、合わせて僅か800万円ほどなので、三男が適当に返すこと。

 それ以外の破産の手続き等は適当にしてくれ。葬式はやらなくても構わない。

                                      以上」