毛利元就の三子教訓状(三本の矢の教え)

すごく暑いので、ものすごく暑苦しい手紙を読んでみます。

 

戦国時代に中国地方を席巻し、生涯一度も戦に負けたことのない、毛利元就が、三人の子どもに当てた手紙が「三子教訓状」として残っています。実物は、山口県防府市の毛利博物館にありますので、是非おいでください。

いわゆる、三本の矢の教えとして、今も知らない人はいません。

そのとき(1557年11月25日:旧暦)、元就は60歳。長男隆元34歳・二男(吉川)元春27歳・三男(小早川)隆景24歳です。この手紙は、14条が箇条書きになっています。

 

前文:「三人心持ちの事」お前たち三人の心の持ち様が、大事である。

1~6が三人の息子への直接的な教訓です。

1.毛利の名前を全力を挙げて永遠に廃れないようにすること。

2.吉川を継いだ元春・小早川を継いだ隆景も毛利の二字を決して忘れてはならない。

3.三人は心を合わせて、一人も欠けてはならない。少しの分け隔てがあっても、三人は滅亡する。

4.隆元は元春・隆景の力を背景にして家中内外の政務を決定せよ。元春・隆景は堅牢な毛利家の力を背景にして、吉川・小早川の家中を統率せよ。

5.隆元は元春・隆景と意見が合わないときがあっても親心をもって堪忍せよ。元春・隆景は隆元と意見が合わないことがあっても、親と思って従うのが道理だ。

6.三人ともこの心の持ち様を孫の代まで伝えていってくれ。

 

7~9は家族への思いです。

7.亡くなった母への供養は孝行の証だ。

8.嫁いでいった妹は不憫だから忘れるな。

9.幼い弟(三子にとっては異母弟)のことをよろしく頼む。もし能力がなくても、どこか遠くでもいいので置いてやってくれ。

 

10~13は自分の人生を回顧しています。

10. 私は戦に死んでいった人のことを忘れることができない。

11. 20歳で家督を継いでから今日までの40年は、大波小波、多くの戦いがあった。すべてを切り抜けられたのは不思議だ。武勇に優れてもいないし、身体も頑丈では無く、知恵や才覚にも秀でてはいない。正直でも正義でもなく、神仏の庇護もなかった。

12. 11歳のときに旅の僧から教えられて、毎日、朝日を拝み、念仏を十遍唱えている。後生のためにも、今生の祈祷のためにもなるので、三人も習慣にしてはどうか。

13. もちろん本望は厳島神社の加護を忘れないで、大切にすることである。言うまでもない。

 

最後の締め括り

14. 言いたいことは全部言った。「目出度(めでたし)」

 

以上、あたかも引退する父親の遺訓・遺書のような内容ですが、その後も元就は権力を握り続けて75歳の(当時としては)長寿を全うします。つまり、この教訓状から15年です。

一方で、長男隆元はこの教訓状から8年、41歳で謎の死を遂げます。何者かに暗殺されたとも言われます。

 

その後の毛利家は、隆元が亡くなったとき11歳だった輝元が、吉川・小早川の両川(毛利両川体制)に支えられる形で運営されます。

関ケ原の戦いに敗れ、中国八か国が防長二国に封じ込められても、三子教訓状の教えは毛利家中に引き継がれて、幕末維新の原動力になっていきます。