日本永代蔵より(21) ・・・ 廻り遠きは時計細工

日曜連載は、井原西鶴の「日本永代蔵:現代版アレンジ」です。第二十一回。

 

”長崎に隠れなき思案者 火を喰う鳥も身を知りぬ”

(長崎で知らない者がいない発明家。役に立たないことには取り組まない。) 


古の中国では、人々は心静かで、金銭欲はほどほどで、音楽を聴きながら囲碁を楽しんだり、詩を吟じながら酒を飲んだりしていました。春三月には緑が芽吹く山を眺め、秋九月には船を出して名月を仰いで楽しみました。中間期末決算であたふたしている現代人とは違って、あくせくしない生き方です。もちろん、今の時代にこんな生き方をするのは愚かです。

こんな古の中国にも、機械式時計の開発に一心に取り組んだ人もおりました。寝る間も惜しんで、開発に取り組みましたが完成には至らず、子に引継ぎ、孫に引継ぎ、三代目でついに出来上がりました。労多くして功少なしとはいうものの、この時計こそが世界の大切な宝となりました。

 

その時代にポルトガルから日本に伝わった菓子が金平糖です。当時は、表面に凹凸がある独特の形の菓子を、どうやって作るのかは秘密になっていました。このため、金平糖は、今の価値で100gが5万円もする高級菓子でした。

ところが、そんな秘密もやがては知られるところになって、最初に長崎の菓子屋がつくりはじめ、その後は日本中の菓子屋に拡がって、安価に売られるようになったお話です。

 

日本で最初に金平糖をつくったのは長崎の小さな菓子屋の職人です。職人は、長崎にいたポルトガル人に製法を尋ねてみましたが、秘伝の技を知る人がおりません。

そこで、仕方なく独自の工夫を重ねます。

 

どうも、何かを核にして、廻りに砂糖の結晶を成長させるということはわかってきました。ポルトガル人が好む胡椒粒を使ってやってみるのですが、角がきれいに生えてきません。

3年の試行錯誤の結果、ごまを芯にして砂糖をかけながら丸めていけば金平糖らしきものが出来上がることがわかりました。これは、ごまを砂糖で煎じた後に、これを天日で乾燥させ、炒り鍋に薄く蒔いて、ゆっくり加熱することで、ごまの中から砂糖を吹き出させて金平糖をつくるというオリジナル製法です。

 

この金平糖は輸入品以上に美しく美味であって、100g当たりの原価は400円ですが輸入品と同じく5万円で販売できました。この菓子屋は、販売開始の年だけで2000万円の純利益を上げました。

その後も、菓子屋としては製法を隠しておきたかったのですが、近隣の同業者に隠し通せるわけもなく、金平糖の製造は長崎から日本中に拡がっていきました。

 

さて、この菓子屋は、金平糖で得た資金と知名度を活かして輸入雑貨店に商売替えをしました。当時、長崎の港には世界の商品が集まってきていました。手元資金で、世界各地の珍しいものや、日本で人気の高い商品を買い付けていきます。

工夫を重ね、一心に仕事に打ち込んだので、菓子屋は一代で10億円の資産家になりました。

 

海外との大きな取引は、東京の大会社がおこないます。高い先見性で、投機的な貿易取引を成功させて大きな利益を出す会社もたくさんあります。正確な記帳や正直な交渉は軽視して、山勘と経験と度胸で、大資産家になる人も多いです。

金平糖の雑貨屋は、こんな人と違って、現物の商品だけで資産をつくりました。

 

資産家になった人にはそれぞれ種があります。種がなくて資産家になった人はいません。

経営者団体の集まりで、何人かの資産家に、原因を語ってもらいました。

東京の資産家は、ほんの僅かな地縁があった大会社からの資金提供がきっかけだったそうです。

京都の資産家は、ブティックや呉服屋と提携して元手無しの貸衣装屋を開業したのがきっかけだということです。

大阪の資産家は、恥ずかしながら家内のへそくりを借りて起業したのだそうです。。

どこの資産家も、それぞれ何かの種を持っています。もちろん種の幸運だけで、資産家になれるわけはありません。努力と工夫を怠らないで、続けることです。

 

もし、輸入雑貨で設けようとするならコツがあります。自己資金を使って、長期間保管しても傷むことの無い品物を、その時の値段が特別安いときに買い入れて、人気が出たときに売り出すのです。

但し、どんなに素晴らしい商品でも10年も保管してはいけません。商品の回転とバランスを取ることです。また、保管中に劣化して価値が下がる懸念のあるものには、手を出してはいけません。どれほど珍しいものでも、役に立たないものも取り扱わないことです。

これらに気をつければ、損失を気にしなくても済むはずで、事業は成功します。