今日、5月5日は子どもの日の祝日です。五節句のひとつ端午の節句です。
中国の春秋戦国時代に、楚に屈原(伝:紀元前343年~278年)と言う政治家(今なら総理大臣級)がおりました。屈原は詩人でもあり、中国で最初の大詩人とも言われます。
楚という国は、紀元前11世紀に興きて、紀元前223年に秦に滅ぼされるまで続きます。このブログでお馴染みの老子も楚の人です。老子は屈原より200年くらい前の人になります。
※ もっとも老子も屈原も、実は実在した一人の人物だったかどうかはよくわかりません。
屈原の時代は戦国七雄のなかでも、秦と斎が二強で、楚・燕・趙・韓・魏が五弱という情勢でした。楚も秦につくか、斎につくかで国を二分する議論がされていました。
このとき、斎と結んで秦を遠ざけるのを「合従」、秦と同盟を結ぶのを「連衡」と言います。
「合従連衡(状況に応じて各勢力が結び、離れるさま)」の語源です。
さて、屈原はたいへん正義感が強く、国のことを深く思っていました。そのために、多くの国民の信望を集めていました。
屈原は、秦は信用できないと考える「合従派」でしたが、連衡派の陰謀によって失脚して、国を追われてしまいます。そして、失意のうちに汨羅江という川に身を投げてしまいます。この屈原の入水が5月5日のことでした。
屈原が失意のなかでつくった「離騒(離れていても心が騒ぐ)」という詩は特に有名です。
楚の国民は屈原の無念を思って、毎年5月5日の命日に、小舟を川に出して太鼓を打ってその音で竜をおどしながら、屈原の屍を救い上げる祭礼をおこないました。これが竜舟競渡(ドラゴンレース・長崎のペーロン競争)の起源です。
また同じ5月5日には、川底の屈原の安寧のために水神への捧げものとして、キビ餅をマコモで巻いて牛の角に見立てたちまき(粽)を川に投げ込むようになりました、これが端午の節句にちまきを食べるいわれです。
つまり、端午の節句は屈原の命日である5月5日に供養のために行われた祭りを起源としています。国の安寧をはかり病気や災厄を避ける行事として少しづつ広がっていき、三国志の時代の魏の国で国家の行事として定められました。
その後、中国から日本へと伝わってきましたが、端午の節句が子どもの成長を願う行事へと変わり定着するのは、ずっと最近になって江戸時代のことです。