日本永代蔵より(15) ・・・ 紙子身代の破れ時

日曜連載は、井原西鶴の「日本永代蔵:現代版アレンジ」です。第十五回。

 

”駿河に隠れなき花菱の紋 無間の鐘を聞けば突き損ひ”

(静岡で知らない者がいない大会社。祈るだけでは御利益は無し。) 


静岡市に本社がある花菱物産は、県内の人で知らない者はいない有名な会社でした。全国各地に支店を開いて、従業員もどんどん採用して、会社は活気に満ちていました。

どんなに繁栄した会社でも、没落することは世間にはよくあることで、その時期が来たと言えばそれまでですが、この会社の場合は社長であった花菱忠助の責任でしょう。

 

忠助社長の父親は、小さな織物工場を経営していたのですが、安価な材料で高級感のあるちりめんを企画して人気を得ました。製法が特殊で他に製造することができる会社がなかったので、独占販売を続けたことで、30年で1000億円の資産をつくりました。

 

二代目の忠助社長は、優れた親の息子にしては頭が悪く、財務経理も出鱈目な放漫経営を続けたので、全ての資産を使い果たして会社を倒産させてしまいました。

仕方ないので、静岡市内に仮住まいをしていますが、社長社長と寄ってきていた人たちも遠ざかり、親類縁者も離れていきました。会社を離れた元社員たちとの連絡も途絶えて、訪ねてくる客もありません。

 

それでも正月には、両隣に住む人が年賀に来てくれました。

「忠助さんは年は48か49くらいですか?」と訊ねると、忠助社長は気分を損ねて「私はまだ39歳です。」と答えます。「いや、そんなに若いということはないでしょう。」と近所の人が問い詰めると。「年は47歳だが、会社をつぶして何もしていなかった年が8年あるから、その年には年齢を増やしていないので39歳だ」と言い張ります。新年早々の初笑いになりました。

その笑いのなかで、忠助さんは「掛川市に金の当てがあるので、旅費を貸してくれないか?」と言い出しました。親切にも、両隣の住人がいくばくかのお金を援助してくれたので、忠助さんはその場からJRに乗って掛川市に向かいました。

 

忠助さんは、昔から信仰していた掛川市の観音様にお参りして、「私をもう一度金持ちにしてください。子どもがどんなに貧乏になっても構わないので、私を今だけ援けてください。」と一心に祈ったそうです。旅費を使い果たして、静岡市に戻ってきた忠助さんですが、近所の人もあきれ果てて、あれじゃどうしようもないと、さじを投げたそうです。

 

その近所の人になかに、竹細工つくりの職人がおりました。忠助さんは何を考えたか、その職人に弟子入りして簡単な細工物をつくり始めました。

忠助さんには13歳になる娘がおりました。自分がつくった細工物を娘に持たせて、静岡の繁華街で売りに行かせました。この娘が、とんでもない美少女のうえに親孝行だと評判になって、拙い細工物でも日々の生活の費えになりました。

 

あるとき、東京の大企業の社長が静岡を訪問して、街角で娘を見かけます。姿も美しく、心も清らかな娘に感動して、忠助さんともども親子を東京に引き取ることになりました。

その後、娘は大企業の御曹司を結婚して、忠助さんも何不自由なく一生を終えたということです。