日本永代蔵より(12) ・・・ 国に移して風呂釜の大臣

日曜連載は、井原西鶴の「日本永代蔵:現代版アレンジ」です。第十二回。

 

”豊後隠れなき真似の長者 程なく剥げる金箔の三の字”

(大分で知らない者がいない大金持ち。あっという間の没落。) 


 

大分県内の全ての名医に診てもらいましたが、もうどうにもなりません。集まった親類縁者が、病人の手を取って「親父様、もう苦しむのは終いですよ。極楽で楽しみなさい。」と勧めれば、うっすらと目を開けて「私は今年で83歳。天寿を全うして何も思い残すことは無い。皆も生活の基盤だけはしっかりと守るように」とだけ言い残して大往生しました。

縁者一同は、しっかりしたお葬式を上げて、喪中の間、亡き者を思いやりました。

 

一人息子は親父の会社と資産をまとめて引継ぎました。引継ぎに際しては、親の言いつけを守って、三年の間は新規事業に手を出さず、修繕修理もほどほどにして、顧客や地元に人への責任を果たしながら、会社を守りました。三年間、毎日、父の墓前に手を合わせ、残った母を大切にしたところ、どんな望みも叶うような幸運なスタートを切りました。

 

その間にも、父親のもう一つの遺言「例の植物油の事業を検討せよ」に取り掛かっていました。父親は、具体的なことは、それ以上は言わなかったので、後は息子の才覚です。

もともと良質な油が採れる植物が見つかっていました。食用にも化粧品にも燃料にも使える優れものです。大分大学や大分県技術センターだけでなく、九州の優れた研究機関にも研究費を出してひたすら開発につとめました。遺伝子操作や生育環境のコントロールで、とてつもない価値の植物油脂の生産に成功しました。

早速量産です。大分県内の放棄農地をみんな買い取り、福岡や宮崎など隣県にも手を伸ばします。植物油のあまりの性能に注文は引きも切らず、利益は増えるばかりです。工場は増設に次ぐ増設、世界各国への輸出は順番待ちです。大分港にはタンカーが列をつくりました。

 

一人息子は、日本でも有数の資産家になったので、花の都パリに遊びに行くことにしました。花はどこにでもあるのですが、パリの街を歩いている花は格別です。「なんで大分の田舎で一生懸命に働いてきたのか」と愚痴も出ます。今は、金の心配は要りませんから、遊興に気を乱し続けました。

 

それでもいつかは帰国しなければなりません。美しいパリの花を十二人選りすぐり、プライベートジェットをチャーターして大分に戻りました。

自宅をヨーロッパの宮殿を模して建て、屋根には金箔を貼りました。屋敷の四方に三階建てのゲストハウスをつくり、ホールに図書館、廊下の長さが100m、東西には日本庭園、南は人工の湖を中心に中国風庭園、南はロダンの彫刻を配した洋風庭園です。

雪の朝には光を眺め、夏の夕涼みには蛍が飛ばし、冬にも花を咲かせ、美女と戯れ、放蕩三昧。これだけの奢りには、天の咎めもありそうです。

 

家族兄弟が諌めても、全く止める気配がありません。

そこで、古参の重役が、一計を案じて会社の資産の一部を凍結しました。代表権のある一人息子でも勝手に使えないように保全をしました。これで、会社がつぶれることだけは避けられたとホッとしたのもつかの間、この古参役員、風をこじらし急死します。

 

その後は、一人息子が自分で資産の凍結を解除して、心に任せて贅の限りを尽くします。

飲み水も料理の水もフランスから空輸して使います。温泉県にいながら東北の名湯が好いと聞いたので、タンカーで取り寄せて24時間の温泉三昧です。風呂釜の大臣と陰口を言われます。

 

案の定、1年の決算すると営業利益は1500億円も出ている会社なのに、資本の欠損が生じていました。一人息子はこうなると止まりません。結局は、身体を壊し、背任で訴えられ、あっという間に亡くなってしまいます。

会社の資産、個人の財産・家屋敷、ことごとく海外資本の手に落ちてしまいました。