現場主義の徹底で大発展・・鐘紡の生産革新(4)

ものづくり企業の発展は、どれだけ現場主義を徹底できるかで決まります。

 

「科学的操業法」を導入した鐘紡は、徹底した現場主義でブラッシュアップしていきます。明治から大正に掛けて、いくつかのエピソードを紹介しましょう。

 

1)鐘紡は、1922年(大正11年)に、本社を含む事務所・営業所を工場構内以外には設置しないと定款に定めています。この工場構内に置かれた本社事務所には、机はあっても椅子がなく、工員と同じく事務員も立って仕事をしていたそうです。

 

2)「注意函」と呼ばれた、今の改善提案制度がありました。工員や事務員が提出した改善提案はトップまで直接届くように厳命されていて、あるとき管理職が提案の内容を書き換えたことがわかり、その管理職は直ちに処分を受けたそうです。

 

3)生産においては、源流管理が最も重視されました。「よい綿花からよい綿糸ができる」という考えは徹底されていて、原料綿花の品質と安定が重要視されました。また、機械の性能の維持と保全、工場内の温度湿度など、製品の品質に関連する要素に注意しました。

 

4)従業員の定着が製品の品質と生産性に重要と考え「大家族主義」と言われる労務管理を確立しました。当時は「いったん鐘紡の従業員となれば、その家族を含めて一生なんとか生活できる。」とさえ、言われていました。

 

 

「工場の仕事は直接機械のそばにいる職工が何から何まで一番よく知っている。従って工場の経営者は職工に直接会って話を聞くことに努め、これらの手段で下意上達を図らなければならない。」ということを実践していたわけです。

 

さて、話は変わって1919年(大正8年)に米国ワシントンで第一回国際労働会議(ILO)が開催されました。その会議に日本の経営側代表として出席したのが、鐘紡の武藤山治でした。

当時の日本は発展途上国の位置付けです。欧米先進国から一日8時間労働制を要求されたのですが、まだ日本では12時間労働が一般的でした。結局、この会議で日本の経営側は「一日10時間・週57時間労働」の実施を約束することになります。

 

ところが、この会議で武藤は鐘紡の労働時間以外の労働条件について説明して、欧米の経営者を驚かせました。鐘紡では年金制度、労働災害補償、労働者やその子弟に対する教育制度など福利政策があったわけですが、先進国でも当時はそのような制度はほとんどなかったからです。

 

大正時代の終わりまで、鐘紡を筆頭にした日本の紡績業は生産性を高めつづけました。その後は、戦争の時代になり、戦火の拡大は紡績業にも苦難の道を歩ませました。

敗戦後は朝鮮動乱の糸へん景気も相まって、日本の繊維産業は力強く復興します。合成繊維への移行を含めて、多くの繊維会社が化学や食品、住宅分野へと(鐘紡の場合は化粧品分野も)多角化し、発展していきました。

 

そのなかで、日本のものづくりの源流とも言える鐘紡は、破滅から崩壊への道を進んでしまいました。原因が、現場主義を忘れた経営者にあることは言うまでもありません。

 

鐘紡という会社があったことすら忘れられようとしています。しかし、鐘紡のものづくりの精神と努力が長く語り続けられることを期待しています。

(終わり)