日本の生産システムの源流・・鐘紡の生産革新(1)

山口県でも、子どもたちは鐘紡という紡績会社があったことを知らなくなっています。

 

鐘紡が、多角化の失敗から粉飾決算に手を染めて消滅したのは、創立から120年を経た2008年(平成20年)のことです。カネボウ化粧品として名前が残りましたが、本体は大規模な整理をおこなった後にクラシエグループに譲渡されました。

 

山口県では鐘紡・防府工場があり、鐘紡町という地名もついています。現在は、旧鐘紡合繊を大和製罐が譲り受けてベルポリエステルプロダクツ、人工皮革部門を倉元製作所が譲り受けてFILWELLとして操業しているほか、跡地がイオンのショッピングモールになっています。

 

鐘紡という紡績会社は、日本のものづくりの原点と言える素晴らしい会社でした。会社が消滅したことで、その記憶が薄れていくことが惜しまれますので、少し紹介します。

 

 

1887年(明治20年)のこと、現在の東京墨田区の鐘淵に東京綿商社という会社がありました。中国から綿花を輸入販売する会社でしたが、予想通りの販売ができずに在庫が山になる事態がおこりました。そこで在庫処分のために、自ら紡績事業に乗り出して作ったのが、鐘淵紡績(鐘紡)です。当時の最新鋭の機械を揃えた近代工場でした。

まぁ、こんな理由で創業してもうまくいくはずもなく、操業開始1年目の1890年から赤字となりました。そこで、三井銀行に支援してもらうことになるのですが、業績を立て直すためにとった手段が現代とは違います。なんと、生産拡大に走るのです。日本が近代化の歩みを力強く進めていた時代だからこその選択です。

鐘紡は、1893年に東京第二工場を稼働させ、翌1894年には更に大きな兵庫工場を建設します。

 

この1894年(明治27年)に登場するのが、有名な武藤山治です。

武藤は当時27歳で、三井銀行神戸支店に勤める銀行員でした。この時点では、技術者でもない若い素人ですが、鐘紡はその命運を委ねることになります。そして、日本の紡績業の飛躍的な発展につながっていきます。

 

いきなり兵庫工場の支配人となった武藤は、入社4年目には兵庫工場長に就任します。その後、生産畑を歩み、生産統括する役員を経て、1921年(大正10年)から1930年(昭和5年)まで鐘紡の社長を務めます。この間に武藤と鐘紡が築き上げた「多種量産システム」が、現在に至る日本の製造業の礎になっています。

 

日本の生産システムと言えば「トヨタ生産システム(TPS)」ですが、トヨタは豊田自動織機から分離独立した会社です。そしてTPSを確立した大野耐一は、トヨタのルーツである豊田紡織の出身です。武藤が鐘紡の社長を退いた1930年当時、豊田紡織はまだ鐘紡を筆頭とする十大紡に続く中堅の位置にありました。(当時、鐘紡は日本最大の民間会社)

明治から昭和に掛けての紡績業の生産システムが、日本の製造業の強さの源流にあります。

(続く)