吉野ヶ里遺跡から製鉄の歴史を考える

歴史はいろいろな理由で書き換えられます。古代史においては、発掘による発見によって書き換えられる(つまり科学的な理由で)ことが多いです。

 

佐賀県の吉野ケ里遺跡は、今は国営歴史公園になっています。面積は87haで、東京ドーム18個分(ちなみに、東京ドーム○個分というときの、東京ドームの面積は4.7ha)の広大な敷地に、およそ100棟の建造物が配置されていて、弥生後期の「クニ」や「ムラ」が再現されています。よく整備されている素晴らしい公園ですし、福岡空港からも1時間余りと交通アクセスもよいので、海外からの観光客や見学者もたいへん多くなっています。

 

弥生時代は、今から2700年~1700年前(紀元前8世紀~紀元3世紀)くらいと言われています。縄文時代と弥生時代は土器の違いと水田稲作の開始で分けられるのですが、年代測定法の進歩研究では北部九州での弥生時代の開始は3000年以上前に遡るという説も有力になっています。

 

さて、吉野ヶ里一体からは、紀元前5世紀~紀元3世紀までの遺跡が発掘されていて、長い年月を掛けて発展していたことが偲ばれます。そして、この遺跡からは多くの鉄器も見つかっています。

日本で確実な製鉄遺跡は広島県や島根県で発見された6世紀まで待たなければありません。このため、この時代には日本で製鉄はおこなわれていなかったというのが定説でした。つまり、弥生後期以降は鉄器の一部は日本で製作されていたので、6世紀までの間は朝鮮半島から鉄のインゴットを輸入していたということになっていました。なんだか常識的には考えられないことですが、ギャップを埋めるためには仕方ありません。

 

1995年に私の地元である広島県三原市の小丸遺跡から3世紀の製鉄所跡が発見されて歴史のネジが巻き戻されはじめました。朝鮮半島からいきなり中国地方の真ん中に来るはずはないので、北部九州や山口県や島根県ではこれ以前に製鉄が行われていたと思われます。これからの調査や研究で、まだまだ歴史は書き換えられると思います。