吉野ヶ里公園と佐賀城はクルマで30分足らずです。セットで観光する人が多いと思います。
佐賀城本丸歴史観では「佐賀の八賢人」という寸劇が披露されています。幕末維新時代の、鍋島直正(佐賀藩主)、大隈重信(首相・現早稲田大学創設)、佐野常民(日本赤十字創設)、島義勇(北海道開拓)、江藤新平(初代司法卿)、副島種臣(外務卿)、大木喬任(初代文部卿)、枝吉神陽の8人を指しています。枝吉神陽は佐賀の吉田松陰と呼ばれる教育者で、大隈重信や江藤新平などの先生に当たります。

現在、夫婦の選択的別姓が議論になっているところですが、明治新政府で初代司法卿を務めた江藤新平の考えをみてみます。
江戸時代には国民の身分を直接に証明するものはありません。士農工商の区別もあって、国民という概念そのものが未だ無かったとも言えます。
明治政府はフランス人弁護士のブスケをお雇い外国人として招聘して、フランス民法を模範にして戸籍法をつくりました。
戸籍法以前の日本では婚姻は法に則っていないので、結婚も離婚も簡単で頻繁に行われていました。極端な話では、今日結婚して明日離婚することもありました。もちろん、夫婦の財産や子の財産についての定めが無かったので、離婚した場合に財産を全て失ったとか、親に扶養されないで孤児になるとか、多くの悲劇が産まれていました。
戸籍法では、出生・婚姻・死亡の3つを明らかにして、「財産分派」を規定しました。当時のフランス民法では、婚姻は厳格な契約に基づくものとされ、国の役所が管理するべきものとされていました。司法卿となった江藤新平も、婚姻を法的に厳密にすることに賛同して、夫婦と婚姻は十分に保護されるものとしました。
しかし、婚姻を厳密に規定したことで、当時は認められていた妾や私生児と妻や嫡出子との間に差別が産まれることにもなりました。このことを以って、江藤新平を非難する人もいるのですが、江藤は妾や私生児が減っていくことを望んでいたのです。
江藤新平は、厳格な婚姻でつくられる「家」の繁盛こそが「国家の富強」につながると考えていました。婚姻すると夫婦が同姓を名乗るように決めたのも、これが背景でしょう。
もっとも、全ての国民に姓(苗字)の届け出が義務化されたのは、この後の明治8年のことです。多くの庶民は戸籍に登録すると税金を取られると恐れて、姓を届け出ないままにしていた人が多かったのです。