奥の細道むすびの地、大垣で水の雅を感じる

大垣に宿泊したので、早起きして大垣市内をお散歩しました。1万歩を超えてしまった。

 

大垣市は古くから水都と呼ばれ、豊富な湧水によって美しい水郷の景観を残しています。水路の周りを散歩するのは、寒い朝にはキリっとして良いものです。

水路沿いに、松尾芭蕉の奥の細道の名句を紹介する石碑がつくられています。江戸の千住をスタートした芭蕉の奥の細道、そのゴールが大垣です。

 

奥の細道
奥の細道

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」

松尾芭蕉は、元禄二年(1689年)3月27日に江戸深川の芭蕉庵を出発します。この日は新暦では5月16日です。

千住で「矢立てのはじめ」として「行く春や鳥啼き魚の目に泪」と詠み「奥の細道」に旅立ちます。 

 

奥の細道、総行程2400㎞の徒歩の旅の終点が、大垣です。到着したのは8月21日(新暦10月4日)で、156日に及ぶ長旅でした。

 

単純に平均すると1日に16㎞ですが、芭蕉は気に入ったところには1週間以上も滞在しています。1日に歩いた最も長い距離は、白石から仙台の51㎞だったそうです。

芭蕉=伊賀忍者という説も、ちょっと信ぴょう性があります。

 

さて、大垣での”奥の細道むすびの句”は「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」というものです。

「行く春」ではじまった旅の最後が「行く秋」というわけです。

 

この句は、「ハマグリの”ふた”と”み”が容易に切り離せないように、離れがたい思いがあるけれど、私はあなたたちに別れを告げて、秋が行き冬に向かうこの時節に、再び旅に出る。」という意味です。

 

芭蕉は大垣を出発して、伊勢に詣でた後、故郷の伊賀上野や京、大津などに滞在し、元禄四年(1691年)の晩秋に、江戸深川へと帰ります。

 

元禄七年4月に芭蕉は「おくのほそ道」を完成させ、5月に伊賀上野に帰郷の旅に出ます。大津に滞在して、伊賀上野に到着したのは7月になっていました。

9月になり、芭蕉は弟子たちと奈良を経て大阪を訪れます。大阪で句会を開いたりしていますが、体調を崩して、10月12日に大阪の地で亡くなります。享年51歳でした。

 

前日のブログ<     >翌日のブログ