文化勲章の先進性と広田弘毅の矜持

文化の日には文化勲章の天皇親授が皇居でおこなわれます。

 

今年の文化勲章は、歌舞伎の松本白鸚さん、日本画の上村淳之さん、箏曲の山勢松韻さん、発酵学の別府輝彦さん、電子工学の榊裕之さん、中国思想史の吉川忠夫さんの6人が授章しました。文化勲章という制度をつくったのは、悲劇の宰相といわれる広田弘毅が率いた内閣でのことです。

 

広田弘毅
広田弘毅

広田は明治11年に福岡市で生まれました。若いときに外交官になると決めて、修猷館高校を卒業後に東京大学に進みます。外務省に入省した広田は中国(清)、英国、米国、オランダで経験を積んだ後、昭和5年にソ連大使となります。

 

昭和8年に広田は外務大臣に就任します。広田は、万邦協和を目指し「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と語り陸軍と対立します。戦争に突き進む陸軍を必死になだめながら、外相として対外融和外交を進めます。

 

昭和11年に二・二六事件が勃発します。ときの岡田内閣は倒れ、昭和天皇は広田を総理大臣に選びます。しかし、広田内閣は陸軍の勢いを止めきれず、僅か11か月しか続かずに林銑十郎内閣(陸軍大将)に代わります。文化勲章の創設は、短命に終わった広田内閣最大の功績と言われます。

 

文化勲章が卓越している一つは、「文化とは人類が自然生活に満足せず、その固有の天性に応じて自然を理解利用して成せる価値の創造をいう」 と定義して、「本章の授与せらる範囲は科学、文学、絵画、音楽、演芸、建築、彫刻、道徳、宗教等の発達の為め国家に対し理論的又は実際的方面の功労顕著なるものとす」としたことです。

 

当時は「文化」という言葉自体が新しくて定義が曖昧だったのですが、文化勲章の対象を芸術領域だけでなく科学分野まで広げたのです。第一回の文化勲章受章者は、科学分野から長岡半太郎、本多光太郎、木村栄の3人。芸術分野から佐佐木信綱、幸田露伴、岡田三郎助、藤島武二、竹内栖鳳、横山大観の6人が選ばれました。

 

もう一つ文化勲章の特徴は、単一級の勲章ということです。一等・二等とか大・中・小とかの序列がありません。勲章では1945年に制定されたアメリカの大統領自由勲章が単一級の勲章ですが、比較的珍しいようです。

尚、黄綬・藍綬・紫綬など分野ごとの功績を称える褒章(メダル:medal)は、勲章(オーダー:order)ではありません。

 

戦後、広田弘毅は東京裁判で、文官として唯一のA級戦犯とされて絞首刑になります。広田は戦争に反対して陸軍と対立しながらも、止められなかったわけで、戦犯とされるのには連合国のなかでも異論も多かったようです。

しかし、広田自身が一言の弁明もせず、むしろ極刑を望んだことから6対5の評決を以って処刑が決まりました。昭和23年12月23日のことで、広田71歳でした。