オスカーを受賞した唯一の日本人演技者 ナンシー梅木

今年はお騒がせのアカデミー賞ですが、日本人俳優として唯一の受賞者、ナンシー梅木を、あなたは知っていましたか?

 

2022年のアカデミー賞は、ウイル・スミス氏がプレゼンターを平手打ちして、話題を独占してしまいました。国際映画賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」も、少々影が薄くなりました。日本のアカデミー賞受賞は、作品では1952年の「羅生門」をはじめ9作品です。個人では黒澤明(名誉賞)、坂本龍一(作曲賞)、ワダエミ(衣装デザイン賞)などの受賞があります。しかし、演技者で受賞したのは、ナンシー梅木ひとりだけです。

 

ナンシー梅木は日本での芸名です。本名は梅木美代志。アメリカではミヨシ・ウメキで知られています。

1929年(昭和4年)に、ミヨシは小樽市で9人兄弟の末っ子として生まれます。音楽好きだったミヨシは、兄が札幌の米軍キャンプで通訳として働いていたことから、キャンプで歌うようになります。

 

本格的に歌いたいと思ったミヨシは19歳のとき上京してジャズ歌手として舞台に立ちます。ミヨシの実力は認められて、雑誌「スイング・ジャーナル」の人気歌手投票では1951~53年の3年間連続1位を獲得する人気ぶりです。日本のトップボーカリストとして、ショービジネスとラジオを舞台に確固たる地位を得ます。

 

ミヨシは、1955年(昭和30年)に3か月の予定でアメリカを訪問します。クラブなどで歌っていたミヨシは出演したタレントスカウト番組「アーサー・ゴッドフリー・ショー」で大好評を得たことから、引き留められます。マーキュリーレコードから2枚のアルバムをリリースしたミヨシにハリウッドから声がかかります。

 

初めて出演したハリウッド映画「サヨナラ」で、1957年のオスカー(助演女優賞)を獲得します。下の映像は、ミヨシがオスカー受賞したときのスピーチです。 

1958年、オスカーを受賞したミヨシはブロードウェイに進出し、ミュージカル「フラワー・ドラム・ソング」に主演して絶賛を博します。この作品は2年間という長期公演となり、1961年にはミヨシが主演して映画化もされました。

 

ミヨシは1960年代を通して、舞台とテレビ番組で活躍します。そして、1969 年に「エディの素敵なパパ(The Courtship of Eddie’s Father)」という大人気テレビドラマにレギュラー出演します。3シーズン続いたこのドラマが終了した後、1972年にミヨシは43歳で自ら芸能界を引退して、家庭人として落ち着いた生活を求めます。

 

引退から僅か4年の1976年に夫に先立たれたミヨシは、ロサンゼルスで映像機器のレンタル業を引き継ぎます。実業から引退してハワイで生活した後、2004年に息子の住むミズーリ州の小さな町に転居します。息子の家族に看取られて2007年に78歳で亡くなりました。

 

アメリカで華々しい活躍をした日本人女性がいたわけですが、あまり知られていません。

実は、1950年代の日本(特に男性)の中では、ミヨシに対して否定的な見方が多かったそうです。アメリカに占領されていた日本という立場に屈辱感を持っていた日本人男性としては、アメリカと良好な関係を築き、アメリカの屈強な男性に愛される可憐な日本人女性を演じた(実際に映像を見ても、可憐で可愛らしいですね)ミヨシに屈折した感情を持ったようです。

 

☞ 《研究ノート》アメリカの大スター、ナンシー・梅木の日本における表象に関する考察

-渡米後からアカデミー賞獲得までの雑誌、新聞記事の分析を中心に(俣野 裕美)