多様性のなかに寛容を鍛えることが大切だろう

はっきり書きにくいのですが、オリンピックの演出に関わる人の、遠い過去の言行が今になって問題とされている一連の騒動について思うところです。

 

非難されている人がどれほど悪いのか、個別のことについては、よくわからないので書きません。また、彼らを非難している人たちの厚顔無恥さには苛立ちを抑えにくいですが、それも書きません。ごく一般論として思っていることを少しだけ書きます。

 

看山是山,看水是水
看山是山,看水是水

世界はどんどん多様性を増していきます。その場合、増えていく多様性というのはあらゆる分野に及びます。

 

極端な話ではなく、「正義」にも多様性が増していきます。ある人たちにとっての正義は、他のある人たちにとっての正義ではないということが頻繁に起こります。

つまり、ある人たちにとって「赦すことができない」ということがあります増えていきます。

 

もし”絶対悪”というものがあれば、それは赦してはいけないでしょう。しかし、世の中に”絶対悪”というものは存在しません。例えば、数万人を超える人を殺した人や集団でさえ、古今東西にいくつもあります。しかし、これが”絶対悪”と認められているかと言えば違います。

「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」

 

社会が多様性を増すことは、社会の持続可能性を強めることになります。真に正しい道だと思います。但し、その前提としては、社会が寛容を鍛えることです。何故なら、多様性を認めることは不寛容を広げることにつながりやすいからです。

 

実際に、現在の世界はむしろ不寛容へと向かっています。きっかけの一つが、9.11のテロだったことは言うまでもありません。日本人から見れば理不尽としか言いようのない韓国の行動、長年続く中東でのイスラエルとパレスチナの問題や、中国の新疆ウイグルでの人権侵害など、不寛容は広がっています。

 

寛容を鍛えるには、お互いが相手のことを知ることしかありません。一定のルールの下で、お互いが自分の信じる正しさを語り、お互いが相手の正しさを聞くのです。聞く耳持たずと排除していては、寛容が鍛えられません。

ところが、新型コロナ騒動は、この相手に正しさを伝える機会も、相手の正しさを聞く機会も奪いました。日本に、そして世界に不寛容が一層広がる要因になっていると思います。

 

禅宗では「看山是山,看水是水」といいます。

あらゆる人やモノは、全て平等で差がない。山が山のように見え、水が水のように見えているのは仮のことで、真相には差はないのだ、という教えです。

年も年ですし、できればこうありたいものですが、まだ少し難しそうです。