山口県には楊貴妃の墓がある

ご当地ものブログが続いているので、長門市油谷の楊貴妃の墓を紹介しましょう。

 

楊貴妃伝説-長門市ホームページより:油谷の向津具(むかつく)の二尊院の住職恵学和尚が今から約250年前(1766年)に書き残した文書がある。奈良朝の昔、西暦756年7月に向津具半島の唐渡口(とうどぐち)に空艫舟(うつろぶね)が流れ着いた。舟の中にたいそう気品のある美しい女人が横たわっており、私は楊貴妃だと告げた。介抱の甲斐もなく、女人はまもなく亡くなり、土地のものはねんごろに葬ったという。

 

楊貴妃像
楊貴妃像

楊貴妃は唐の玄宗皇帝の妃です。玄宗皇帝は756年に安禄山に戦いを挑まれて敗走します。皇帝に従った楊貴妃は逃亡先で自害して果てたとされています。

 

玄宗皇帝と楊貴妃が亡くなったのは、今の西安市の近くですから、中国大陸の内陸で海まではずっと遠いです。黄河までも100㎞はありますから、日本列島に船で流れ着くのはあまり考えられません。

それでも、絶対にないとも言えないわけで、伝説としては面白いです。

 

この楊貴妃伝説が生まれたちょうどその頃に、江戸で人気の建部綾足という小説家が「本朝水滸伝」という読本を出版しました。出版したのは1773年なので、恵学和尚の文章の方が古いようにも見えますが、このあたりの前後は不詳です。

 

本朝水滸伝は自由奔放な作品で、昔の有名人がたくさん登場して、いろいろな活躍をするそうです。そのなかに楊貴妃も登場します。

 

遣唐使の藤原清川と阿倍仲麻呂が日本に帰るとき、船が難破して、中国のどこかの浜に流れ着きます。そこへ逃亡中の楊貴妃が通りかかり、清川は楊貴妃を連れて、再び日本へ向かいます。九州に到着した二人は、兄妹と偽って暮らします。清川は孝謙天皇に寵愛され、悪政を続ける弓削道鏡の悪事を憎みます。これを暴くため、宇佐神託を告げた大宰主神の阿曽麻呂を亡き者にしようとします。藤川から頼まれた楊貴妃が色仕掛けで阿曽麻呂に近づき・・・・。

というお話のようです。

 

ということで、楊貴妃のロマンまである山口に、おいでませ!