杉田玄白の「養生七不可」に従う

日本医学史上、最も重要な人物の一人、杉田玄白が「養生七不可」を残しています。

 

杉田玄白は蘭学の開祖として知られています。玄白は、享保年間(1733年)に小浜藩の藩医の家系に生まれ、医者となります。1774年に、前野良沢、中川淳庵らとともに「解体新書」を翻訳出版します。その後、「天真楼」という医院兼医学塾を開き、多くの門弟を抱えて指導に力を注ぎます。玄白自身は、特に外科手術の技量に優れており、江戸で評判の名医として、医院も大いに繁盛したということです。

 

杉田玄白
杉田玄白

杉田玄白が「養生七不可」を書いたのは、1801年のことになります。このとき玄白は満68歳です。翌年に古稀(数え70歳)の祝いを控え、門弟たちが前祝の会を開いてくれました。その会で参加者に配ったものと言われています。

 

「養生七不可」

一、 昨日の非は恨悔すべからず。

一、 明日の是は慮念すべからず。

一、 飲と食とは度を過すべからず。

一、 正物に非ざれば苟も食すべからず。

一、 事なき時は薬を服すべからず。

一、 壮実を頼んで房を過すべからず。

一、 動作を勤めて安を好むべからず。

 

最初の二つ、「過ぎたことにくよくよするな」「まだ来てないことを思い悩むな」はよく言われることです。何事も”人事を尽くして天命を待つ”という精神が大事ですね。

次の二つ、「暴飲暴食をするな」「出所のはっきりした新鮮な食べ物以外は食べるな(苟も=いやしくも)」ですが、心がけたいところです。

 

五つ目、「何でもないときに薬を飲むな」は、医師の至言です。

この章は、”薬物は効力あるものゆえに、法にたがうときは、かえって害あるものなりさりければ、古には毒ともいへり。然るに、今時の人、これを知らず。・・”とはじまり、何でも薬に頼る風潮を戒めています。

 

六つ目は、性行為も過ぎれば生命を損すると言っています。

まぁ、これは冗談と言うか、自慢ですね。この書物はお祝いの会のお土産に、身内に向けて書いたものです。また、この章はとても短い。

このとき、杉田玄白は68歳ですが、末子は5歳だったそうです。幕末の蘭方医として特に眼科で名を成した杉田立卿は、玄白53歳のときの子です。ちなみに、来年のドラフト候補と言われる、慶応大学の速球左腕・長谷部銀次投手は、杉田玄白から数えて8代目の子孫だそうです。

 

最後の七つ目は、「いつも身体を動かすように勤めて、安逸に流れないこと」です。

この章は、”血液は飲食が化して成り、一身を周流し、昼夜に止まらざること、河水の止まらざるがごとし。・・・”とはじまります。人は、動いていなければ健康を損なうということが、何となく感じられます。 


「養生七不可」を門弟に授けた杉田玄白ですが、翌年に酷いインフルエンザに罹ります。一時は危篤状態となり、辞世とも思われる歌を残しています。

「なしうるは おのがちからと 人や思ふ 神の導く 身をしらずして」

少し、人生観が変わったのでしょうか?

 

一命をとりとめた杉田玄白が「和蘭事始(後に福沢諭吉が”蘭学事始”と改称した)」を書きあげたのは、83歳のときです。

そして、85歳で亡くなる直前に、玄白(九幸翁と号していた)が認めた書が残っています。

 

「医事不如自然(医事は自然に如かず)」、これが今に残る杉田玄白に最後の言葉です。

病気の治療とは、自然に従った仕方以上のものはないぞ。人は、自然の中で生きていることを忘れてはいけないよ、と言い残しました。