燗鍋に酒飲む人は多けれど 本読む人はちろりともなし

福山市の神辺(かんなべ)は山陽道の宿場町として賑わっていました。

 

”ちろり”は燗器のことです。神辺に生まれた菅茶山(かん ちゃざん)が言ったことです。管茶山は備後地域では有名な人ですが、全国的にはどうでしょうか? 江戸時代後期の儒学者・漢詩人であり、教育者です。管茶山が興した「廉塾(れんじゅく)」では、頼山陽が塾頭を務めた時期もあります。

 

管茶山の像
管茶山の像

父の苗字の菅波(すがなみ)から1字をとって姓を管(かん)とし、地元の茶臼山から名を茶山としました。

 

裕福な農家に生まれた茶山は、19歳のときに京都に出て儒学(朱子学)を修めます。このときに、頼山陽の父・頼春水と交友ができました。春水は茶山の2歳年長です。

ちなみに、頼家は竹原で紺屋(染色業)を営む豪商で、創業したのが頼兼という地名だったので1字をとって姓を頼としたそうです。

 

茶山は儒学者よりも漢詩人としての方が有名です。いわゆる田園詩人で、見たまま、感じたまま、経験したままを漢詩にしました。当時の人々に共感を得て、2413首を集めた自選詩集「黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)」がベストセラーとなりました。

 

京都から戻った茶山が神辺で開いた私塾の一つが詩集の題にもなった「黄葉夕陽村舎」です。その後、その功績が認められて福山藩公認の郷塾となり「廉塾」と名が改まります。頼山陽のほか、藤井暮庵、北條霞亭などが教鞭をとりました。

 

その後、福山藩の儒官となった茶山は藩校で教える傍らで、江戸幕府の老中を務める藩主 阿部正精の直属教授となります。幕末に老中首座として安政の改革を断行して、開国への歩みを進める安倍正弘は正精の五男です。