道一すじ、浜村秀雄

浜村秀雄は、昭和3年7月山口県秋穂町生まれの陸上(マラソン)選手です。

 

昭和30年(1955年)のボストンマラソンを当時世界2位とされた2時間18分22秒の好記録で優勝しました。ラスト4kmは独走となり、2位に1分以上の大差をつけました。鳩山一郎総理が大喜びをして、ボストンに祝電を打ったというエピソードがあるそうです。

 

ボストンマラソン(1955)優勝直前の浜村秀雄(浜村杯ロードレースのパンフレットから)
ボストンマラソン(1955)優勝直前の浜村秀雄(浜村杯ロードレースのパンフレットから)

秋穂町は、山口県のちょうど真ん中あたりで瀬戸内海に面しています。クルマエビ養殖発祥の地として有名です。

法境の郷とも呼ばれ秋穂八十八カ所霊場が設けられお大師まつりには多くの人が訪れます。大村益次郎ゆかりの地でもあり、洋画家の小林和作が生まれた町でもあります。

2005年に山口市に合併されたので、現在は山口市秋穂町です。

 

さて、浜村秀雄です。戦争が終わって製塩の仕事をしていた浜村は、昭和21年に秋穂町の町民体育大会1500mに出場して優勝します。この勢いをかって山口県大会でも優勝した浜村を、山口県は職員に採用しました。練習を重ねた浜村は、昭和24年に全国陸上競技大会の1500mで優勝を果たします。

 

その後、マラソンに転向した浜村は初マラソンだった昭和27年の第1回別府マラソンに優勝します。(但し、この大会は距離が35km。)もともと中距離選手だった浜村は、当時としては異彩を放つスピード系のマラソンランナーだったそうです。

 

翌年の昭和28年に名古屋朝日マラソン(現在の福岡国際マラソンの前身)に戦後国内最高の2時間27分26秒で優勝、29年には大阪毎日マラソンに優勝します。そして、満を持して出場した昭和30年のボストンマラソンで優勝して浜村の名前は世界に広がりました。(但し、このコースの距離が42.195kmに足らなかったことが2年後に判明して、世界2位の記録は抹消されてしまいました。)

 

残念ながら昭和31年に日本代表となったメルボルンオリンピックでは怪我の影響で16位に終わりました。その後もアジア大会の日本代表などで活躍した後に引退。協和発酵、丸久、ユニクロなど山口県内の企業で陸上競技監督を務めました。

平成12年に71歳で亡くなりました。秋穂町名誉町民です。

 

今日は、浜村秀雄を祈念して第27回浜村杯秋穂ロードレース大会が開催されました。