このところ有名になった日本大学創立130年ですが、山口県と深い関係があります。
日本大学の学祖は山田顕義です。
日本大学のウェブサイトにとても詳しく紹介されています。☞ 「学祖 山田顕義/日本大学」
山田顕義は長州藩士 山田顕行の長男として1844年に萩で生まれています。その後、吉田松陰に師事して、15歳の最年少で松下村塾に入ります。松陰の没後は、大村益次郎に師事して兵学を極めます。
戊辰戦争では長州藩の指揮官として参戦します。薩長土肥を主力とする官軍は、幕府軍を追い詰めて、箱館・五稜郭で幕府軍を降伏に導き、戊辰戦争は終結します。
このとき降伏文書を取り交わすのですが、官軍の代表が山田顕義で、幕府軍の代表が江戸生まれの幕臣 中野梧一です。
ここで興味深いのは、中野梧一はこれから3年余り後に現在の山口県ができるときに初代山口県知事(県令)に就任しているのです。
以前、榎本武揚についても書いたのですが、血で血を洗う内戦をおこなった相手が有能であれば登用するというのは結構すごいです。しかも、よりによって山口県知事ですから。
☞ 2016/12/08 榎本武揚:北方領土問題を解決した男の「シベリア日記」
さて、山田顕義は陸軍の軍人として活躍した後、岩倉使節団の一員として欧米を視察します。帰国すると、今でいう法務省次官に就任して、日本の法整備に尽力します。
明治18年に伊藤博文内閣の初代司法大臣に就任して、その後、黒田・山縣・松方内閣まで務めます。この間、山田の指揮の下で、明治22年に大日本帝国憲法が発布され、いわゆる六法(憲法のほか、民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法)が順次整備されていきます。
このため、山田顕義は日本における「近代法の祖」と称されています。
当時の日本は法律に不慣れで、多くの争いが起きてしまい、日本独自の法律家の養成は急務でした。このため、現職の司法大臣である山田顕義が尽力して、明治22年に設立されたのが日本法律学校であり、現在の日本大学です。
残念ながら、山田顕義は明治25年に急死しましたので、翌明治26年の第一回卒業生を激励することは叶いませんでした。享年49歳でした。