フランシスコ・ザビエルの書簡

山口市は雨で、ザビエル記念聖堂の鐘楼も雨に煙っています。

 

山口市のF.ザビエル
山口市のF.ザビエル

フランシスコ・ザビエルは日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師です。母国やインドのイエズス会に送った多くの書簡が残されており、室町時代の日本を知る貴重な手掛かりになっています。

 

ザビエルがインドのゴアから日本の鹿児島に上陸したのは、1549年8月15日のことです。今から470年ほど前です。

 

当時の室町幕府は足利義輝が13代将軍ですが、将軍には全国を統制する力は既にありません。応仁の乱(1467年)から80年余り、戦国乱世の口火を切った明応の政変(1493年)から55年が経っています。

つまり、日本国内は長期間続いた内乱によって混乱と疲弊が続いていた時代です。織豊による天下統一(1573年)には未だしばらくの時間を要する頃のことです。

 

ザビエルが1549年11月5日(日本に来て2か月半で、まだ鹿児島に滞在中)にゴアのイエズス会に送った手紙が残っています。

 

「私がこれまでに会った国民の中で、日本人ほど盗みを嫌う者はいない。私の知る限りでは、大部分の者は昔の哲学者のように暮らしている。」

 

戦国時代の混沌とした世の中のことです。鹿児島の人が特に素晴らしかったのかも知れませんが、”昔の哲学者”のようだと評価しています。ちょと誇らしいでしょ。

 

同じ書簡のなかでは次のようにも書いています。

「大抵の日本人は字が読めるので、私たちの教会の祈りもすぐに覚えます。」

 

当時のヨーロッパ人はほとんど字が読めませんでした、1700年代のパリ都市住民でも識字率は10%台でした。ザビエルの”大抵の人”が何%に相当するかは不明ですが、当時の日本が、この分野ではヨーロッパ先進国を超えていたことはたしかなようです。

ザビエルにとっては、辺境の地日本に、救いを与えるためにやってきたわけです。その日本でも都から最も離れたところの住民が字が読めるわけですから、よほど驚いたようです。

 

「ここの人々は大半が感情に打ち勝つだけの理性を持っています。この国民は、恥知らずな行いをして罪を犯す他の国の人々とは違い、理性に反するような悪徳にふけるようなことはしません。」

 

僅か2か月半で、ザビエルは筋金入りの日本贔屓になってしまったようです。

重ねて指摘しますが、当時の日本は戦乱の世で、決して豊かではなかったのですから、結構すごいことだと思います。

 

尚、ザビエルの日本滞在は合計で僅かに2年に過ぎません。意外に短いですね。

 

山口には都合3回滞在して布教をおこないましたが、期間は合計しても6か月には満たないようです。ザビエルは、1551年11月に日本を離れてインドのゴアに戻っています。

これは、イエズス会の拠点があったゴアに一時的に帰って、体制を整えて再び日本を訪れようと考えていたようです。

 

ザビエルは、ゴアに戻ると、好きになった日本にキリスト教を定着させるには、中国での宣教が有効なのではないかと考えるようになりました。

そこで、翌1552年4月に中国広東省を訪れますが、港で病に倒れて、そのまま帰らぬ人となりました。46歳でした。