ヘップバーンの「ヨコハマの休日」

ヘップバーンを江戸時代の日本人は”ヘボン”と呼んでいました。

 

ヘボン夫妻 1890年横浜
ヘボン夫妻 1890年横浜

さて、ヘボン博士こと、ジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)は、幕末の安政6年(1859年)に横浜に来日したアメリカの医師兼宣教師です。妻のクララ・メリー・リートも一緒でした。

ヘボンでご想像の通り、ヘボン式ローマ字を開発した人です。

 

ヘボンは脳外科医ですが、医師としての最も有名な業績は、生麦事件(1862年)で負傷したイギリス人を治療したことです。また、当時の日本では珍しい眼科医として白内障の手術などを手掛けました。横浜近代医学の父として、横浜市立大学医学部にはヘボンホールという記念館があるそうです。

 

宣教師あるいは言語学の功績としては、聖書の日本語訳を完成させたことで知られます。来日から20年を掛けて1880年に新約聖書を、1887年には旧約聖書の日本語版を出版しています。

更に、初の本格的な和英辞典「和英語林集成」(初版は1867年で3版は1886年)を出版しました。

 

夫妻は自宅でヘボン塾と言われる私塾を開いていました。このヘボン塾を基礎にして、1887年に私財を投じて開校したのが、明治学院(現在の明治学院大学)です。妻のクララはヘボン塾で英語を教えていて、教え子には後に総理大臣になる高橋是清もおりました。

 

クララの病気のために、ヘボン夫妻は1892年(明治25年)にアメリカに戻ります。34年間の長きに渡って日本で過ごしたことになります。多彩な業績を日本に残した夫妻に感謝です。